淡路島で「かわら焼」を食べたことがある。焼けるのに時間はかかるが、待つのも楽しみ。暇だから、こんなことを考えていた。子どもの頃の夏、家の前で遊んでいたら屋根にボールが引っかかってしまい、瓦の上を裸足で歩くことになった。あーちーちー熱っ!だったけど、目の前の瓦はいったいどれくらい熱いんだろう。
淡路瓦には400年の伝統があり、控えめな銀色が美しい「いぶし瓦」が特色だ。本日は淡路島の対岸にある明石市から、瓦など土製品の生産工場をレポートする。
明石市大久保町高丘2丁目に「高丘古窯跡群」がある。住宅街の一角に斜面の緑地があり、よく見ると登り窯の痕跡らしき窪みが確認できる。
地名マニアにおすすめなのは、大久保町高丘は大久保町大窪に囲まれていることだ。さらにややこしいことに、大久保町大窪は大久保町大久保町と隣接しているのだ。ここは高丘だから、登り窯の築造に適した斜面があったのだろう。説明板を読んでみよう。
県指定文化財 高丘古窯跡群
指定年月日 昭和50年3月18日
所有者 管理者 明石市
大久保町高丘の周辺に広がる高位段丘の斜面に20基からなる高丘古窯跡群がある。うち13基が発掘調査され7世紀から8世紀にかけて須恵器と瓦を焼成したことが明らかとなった。窯跡はいずれも全長10メートル余りの半地下式の登窯(のぼりがま)である。5・6・7号窯は発掘の後、8・9号は未発掘のまま保存されている。
5・7号窯でつくられた軒丸瓦は7世紀に奈良県の奥山久米寺に供給され、また3号窯から出土した鴟尾は四天王寺の鴟尾に似る。高丘古窯跡群は、播磨沿岸部における窯業生産のあり方を考えるうえで重要な遺跡である。
平成4年11月 兵庫県教育委員会
なんと飛鳥時代から奈良時代にかけての焼き物工場であった。須恵器や瓦が焼かれたようだが、ここでは鴟尾(しび)に注目したい。お城の屋根にあるのは鯱(しゃちほこ)で、古代寺院の屋根を飾ったのが鴟尾だ。東大寺大仏殿の屋根で金色に輝くのがそれである。
兵庫県立考古博物館で令和3年度秋季特別展「屋根の上の守り神-鴟尾・鯱-」というマニアックかつ秀逸な展覧会が開催された。鴟尾にはデザインや地域によっていくつかの系統があるようで、展覧会では沈線文鴟尾、蓮華文帯鴟尾、寒風窯系鴟尾、山陰系鴟尾が紹介されていた。
図録の表紙を飾るのは、ここ高丘古窯跡群の3号窯から出土し復元された鴟尾(県重文)で、沈線文鴟尾に分類される。四天王寺講堂址出土の鴟尾(国重文)も沈線文だが、デザインが似ているのは高丘17号窯出土の破片のようだ。
奥山久米寺跡は奈良県明日香村にあり、四天王寺式の大寺院だったことが分かっている。重要寺院に瓦を供給していた高丘古窯跡群。経営していたのは誰か
『続日本紀』延暦九年(七九〇)十二月十九日条にによれば、播磨国明石郡大領(たいりょう)外(げ)正八位上葛江(ふじえ)我孫(あびこ)馬養が功績顕著により外正六位上を授けられた。
この葛江我孫なる豪族は明石市藤江のあたりを本拠地としていたらしく、高丘古窯跡群とも何らかの関係があったことが考えられる。もしかすると長年にわたる公用土製品の生産が功績として認められたのかもしれない。
姫路市市之郷町(いちのごうちょう)四丁目の薬師堂に「市之郷廃寺の塔心礎」がある。バス停は神姫バスのすこやかセンター前である。
この一角だけ時の流れが異なるような空間である。説明板を読んでみよう。
市之郷廃寺の塔礎石
この付近は、白鳳時代(七世紀後半)に創建された寺院(市之郷廃寺)があったところである。この石は当時の塔心礎で、現在姫路市内に残る礎石としては最も古いと言われている。
もとあった場所(南南東約三十m)が山陽本線の拡張工事の際に鉄道用地に編入されたので昭和三十三年十月に保存のため薬師堂と共に現在地に移された。
平成十年七月
姫路市教育委員会
姫路市現存最古の礎石だという。この上には塔がそびえていた。その先端を飾った水煙の破片が見つかっている。最先端の建造物は人々を驚かせたことだろう。伽藍配置は四天王寺式が想定できるという。
特別展「屋根の上の守り神-鴟尾・鯱-」には、市之郷廃寺から出土した鴟尾が二種類出品されていた。一つは沈線文鴟尾で、もう一つは蓮華文帯鴟尾。沈線文鴟尾が東播磨中心に出土するのに対し、蓮華文帯鴟尾は西播磨が中心である。その境目に市之郷廃寺は位置している。
もっと西に目を向けてみると、寒風窯系鴟尾のふるさとがある。さっそく行ってみよう。
瀬戸内市牛窓町長浜に「寒風古窯跡群」がある。
写真上は遺跡の正面で、「寒風窯跡」と刻まれた標柱があり、木の向こう側には2号窯跡(窯体長12.7m、最大幅2.1m)が見える。この古窯跡群中最長だという。
写真下は奥から1-Ⅰ号窯跡、1-Ⅱ号窯跡、1-Ⅲ号窯跡である。Ⅲ号窯は古窯跡群中最古で、7世紀初頭から前半にかけて操業していたようだ。その後、Ⅱ号窯、Ⅰ号窯の順に築かれ、Ⅰ号窯の最大幅2.6mは、古窯跡群中最大であった。説明板を読んでみよう。
国指定史跡
寒風古窯跡群(さぶかぜこようせきぐん)
昭和六十一年二月五日指定
寒風古窯跡群は、瀬戸内市・備前市にまたがり、約百三十基からなる山陽地方最大の須恵器窯跡群である邑久古窯跡群の南端部に位置します。
昭和初期から郷土史家の時実黙水(ときざねもくすい)氏による地道な踏査と資料の採集や成果の報告が行われ、邑久古窯跡群研究の基礎と保存活動が行われました。
寒風古窯跡群の中心は、南や西に面した丘陵斜面の三か所に計五基の窯跡と寒風池南東の丘陵上に工房と考えられる建物跡、須恵器生産に関係する有力者の墓と考えられる寒風古墳からなります。さらに、周辺部には同時期の窯跡や散布地、古墳があることから一帯が寒風古窯跡群を形成していた可能性があります。
窯跡群で焼かれた須恵器は、飛鳥時代を中心(七世紀~八世紀初頭)とした約百年間にわたり、杯(つき)・高杯(たかつき)・平瓶(ひらか)・長頸壺(ちょうけいこ)・甕(かめ)・鉢(はち)などの外に、特殊なものとして焼き物の棺である陶棺や寺の屋根に飾られる鴟尾、役所などで使用する硯があり、政治的・文化的色合いの濃い品々が生産されており、単なる地方の窯ではなく官に関わる窯であることを示しています。
特徴ある焼き物としては、円面硯(えんめんけん)が挙げられよう。本日のテーマである鴟尾にも言及されている。寒風窯が衰退すると備前市佐山地区を経て、12世紀以降は備前市伊部周辺に窯が集中するようになる。備前焼の誕生である。
古代寺院にはスタンダードだった鴟尾は、寺院の廃絶とともに消え去っていく。さほど気に留めていなかった屋根の上の飾りだが、こだわって研究すれば奥の深いことがよく分かる。鴟尾を通して見えてくる古代は、何もなさそうでなかなか豊かな時代であった。
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