山城の真価は登って初めて理解できる。本日紹介する忍山城の真下を吉備新線(岡山県道72号岡山賀陽線)の上高田トンネルが貫通しており、幾度となく通行していた。しかし、トンネルの上に城跡があるなど、想像すらできなかった。山深い場所だが、道路からの比高は大したことなく、眺望も利かない。こんなところに毛利と宇喜多が争った城があるとは。
南北二つの曲輪があり、北から進入すると南曲輪の手前に二条の堀切がある。奥の堀切は息を呑む迫力で現れる。そろりそろりと下りてみよう。
堀切の底である。この真下くらいに吉備新線のトンネルがある。
岡山市北区上高田に「忍山城跡」がある。ここは主郭の平坦地である。
主郭へはロープを伝って登った。振り返るとこの高さである。守りが堅さが見て取れる。
主郭を南側へ下りて、尾根先端の曲輪に進もう。
南端の曲輪では石列を確認できる。櫓が建てられていたのだろうか。南側はこの眺望である。
高田地区を一望することができる。備中山陽路から足守を経て備前に侵入しようとする敵は、必ずここへやって来る。このまま勝尾峠を越える道は備前金川へと通じている。
特は天正九年(1581)十月二十二日、毛利元就の子穂田元清は厳島神社の神官に、戦況を次のように報告している。「穂田元清書状/厳島野坂文書」岡山県中世城館跡総合調査報告書(備中編)より
此表之儀、忍山被取詰候、然者此節敵城中殊外相弱候、落去不可有程候、備作過半被任存分候条、大慶候
引用元の報告書では、このように訳されている。「こちらでは宇喜多方の忍山城を包囲しているが、城中は殊の外弱っているようで、落城まで時間はかからない、備作地域の過半は毛利氏の思い通りになり大慶である。」
こうして忍山城は毛利方の手に落ち、桂就宣と岡元良が城番となった。桂小五郎を輩出する桂氏である。翌年の備中高松における毛利織田決戦では、秀吉軍を北から牽制していた。
今年は室町幕府が滅亡して450年の節目に当たる。この頃から織田と毛利の東西二大勢力の圧迫により、備前備中の戦国大名は去就の決断を迫られるようになる。その最前線となったのが忍山城であった。
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