南朝の忠臣児島高徳は実在するや否や、と歴史学者が論争していた時代があった。否定派は重野安繹、久米邦武、実在派は田中義成、八代国治である。現代の評価が高いのは実証主義を重んじた重野、久米の両博士だが、児島高徳は「抹殺」されたのではない。
地域史学の視点から、高徳のように南朝を支えた地方武士が備前の児島郡や邑久郡にいたことは確かだとされている。本日紹介する山城は、一説によると児島高徳が城主だったという。ホンマかいなという感じはするが、故なしとしない。高徳の出身地とされる児島郡林村は、この城の守備範囲である。
倉敷市木見と尾原の境に「戸山(こやま)城跡」がある。郷内川流域、木見一帯を押さえることができる好立地のようだが、眺望は利かない。
内陸交通を制御できる要衝の城は、『吉備温故秘録』巻之三十九「城趾下」二児島郡で、次のように紹介されている。
木見戸山城 木見村の東にあり。
水沢和泉守居城。常山城主上月肥前守隆徳の麾下なりしといふ。(当村に水沢和泉守の墓今に在り。)
山の高さ三町計、上の広み、二十間四方、丸數跡三箇所なり。
一説に、備後守高徳も、当城に居たるといふ。未詳。
説得力があるのは、常山城主上野(上月)隆徳の麾下、水沢和泉守が守備していたという説明である。この城の北側の谷筋を進めば、常山城の麓へ行くことができる。両城は連携していたと考えるのが自然だろう。
水沢和泉守については、原三正『郷内地区の文化財』(児島地区老人クラブ連合会郷内支部)に、次のように記されている。
水沢和泉守真言(ミサワイズミノカミマコト)
木見の戸山城主である。常山城主三村(上野)隆徳の家臣で通称九郎左衛門と言う。墓も木見の三沢墓地にあると記されている。法名、晴窓常閑禅定門、元亀元(一五七〇)年八月五日に生まれ、寛永十八(一六六一)年十二月三日、七十三歳にて歿すとある。
水沢は三沢と同音で、三沢氏は木見正無田を中心とした地方豪族の一つで、今の三沢氏もその後とみるべきであろう。(戦国時代)
正無田(しょんだ)は城の北側の集落である。地元ならではの詳細な情報だ。また、城主として児島高徳が挙げられたのは上野隆徳との混同ではないか、と同書は推測している。
一見説得力があるように思えるが、上野隆徳は天正三年(1575)の常山合戦で自刃するから、元亀元年(1570)生まれの水沢和泉守が家臣というのは有り得ない。『吉備温故秘録』を信ずるなら、『郷内地区の文化財』の生没年には疑問符がつく。
城への進入路となる西側には立派な石積みがある。
東側の帯曲輪には井戸状の窪みがある。籠城を想定した本格的な山城である。備中兵乱後に毛利氏が接収してから整備されたのかもしれない。そのような史実を明らかにするよりも、地元としては英雄児島高徳に結び付けるほうがしっくりくるのだろう。児島高徳は、いると思えばいるのである。
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