能登半島の穴水町は今年元旦の大地震で大変な被害を受けた。全域で断水となっていたが、今は徐々に解消に向かっていると聞く。この穴水町に「長谷部まつり」がある。毎年夏に行われる武者行列で、既に61回の歴史がある。文治二年(1186)に初代穴水城主となった長谷部信連(はせべのぶつら)公を偲ぶ祭りだという。
信連の子孫は長(ちょう)氏を名乗り、その後も長く能登で活躍した。近世は加賀藩の重臣を務め、明治期に男爵を授けられた。穴水城跡には長氏三十四代当主長昭連氏揮毫の石碑があるという。本日は能登半島の復興を祈念して、長氏ゆかりの城を備後に訪ねたレポートをお届けしよう。
府中市上下町上下に市指定史跡の「翁山城跡(護国山城跡)」がある。
かなり登るだけあって、見事な眺望である。車で行けるのがありがたい。眼下の校舎は上下北小学校で、さとう宗幸作詞の校歌には「あおぎ見れば翁山」という一節がある。ふるさとの山なのだろう。いったいどのような歴史があるのか、説明板を読んでみよう。
指定史跡「翁山城趾(護国山城趾)」
町指定 平成8年9月20日
所在/上下町字上下
「平家物語」の「信連合戦」に記されている高倉殿に仕えていた長谷部信連の流れをくむといわれる城主長谷部氏は南北朝争乱の時北朝方に属し、南朝方有福城の竹内氏との戦を始め数々の戦に参加して戦功をたてたので、暦応3年(1340年)上下の地頭に任ぜられ、前地頭斎藤氏の後、丹下城を賜わり根拠地としていた。その後戦国時代に至り、長谷部大蔵左衛門慰元信により領域は拡大され、居城も此の地に移されたものである。山は傾斜急峻で比高160m余り20くらいの郭を配し、要所は石垣を築く等、全山を城郭化している堅固な山城であった。関ヶ原合戦の後毛利氏の萩移転に伴い、長谷部氏も主流は萩へ移住し、当城は廃城となったといわれる。
平成15年3月 府中市教育委員会
「府中市」はシールだから、その下には「上下町」と書いてあるのだろう。上下町は平成16年に府中市に編入された。城主は長谷部信連の流れをくむ長谷部大蔵左衛門尉元信だという。慰は誤植で、第三等官を表す尉(じょう)が正しい。
元信は戦国期に活躍したというが、毛利氏と尼子氏のどちらに味方したのだろうか。江戸後期の地誌『福山志料』巻之八人物の「長大蔵左衛門元信」の項には、次のように記されている。
長大蔵左衛門元信 長谷部昌益 矢野信隆
長ハモト能登ヨリ来ル高倉宮二仕ヘテ名高カリシ長谷部ノ兵衛信連カ苗裔也大蔵毛家ニ属シテ立花陣ニ向フ雲州白鹿城ヲ攻シトキヨキ首トル陶入道ト折敷畑ノ戦ニ楢崎東市允ト二人シテ勇ヲフルヒ楢崎林主水正ヲ組討ニシ長ハ刺川右近将監ヲ討トル雲州馬潟原役ニハ川添美作守ヲ斬ル数代翁城ニ住ス信隆ハ元信カ子母ハ広橋大納言兼秀ノ子ナリ兼秀大内ニ寄食アリシトキ桃園頼顕カ女ニ通シテ一女ヲ生ム頼顕ノチニ讒セラレ難ヲ避テ翁ノ城下ニカクレスム元信ソノ生メル女兼秀子ナルヲ乞受テ寵ス信隆ハソレカ生タルナリ信隆父ニ譲ラレテ矢野ヲ領シ因テ氏トス毛家三村ヲ討セラレシトキ新見松山両城ヲ援シハ信隆カ功ナリソノ外所々高名スクナカラス年四十而卒ト云(長谷部系図)近コロ府中二匿隠セシ長谷部昌盆ハコノ支族也読書ヲコノム吉備津宮略記ハコノ手ニ成レリ
今按ニ長九郎左衛門信康永享九年行幸記布衣侍十人ノ内ニミユ長ハ北国ニ宗家アレハソノ家ナリヤ
長氏はもともと能登出身で、以仁王に仕えて有名な長谷部信連の子孫である。元信は毛利家に属して筑前立花城の戦いに参加し、雲州白鹿(しらが)城の戦いでは上位武将の首を取った。陶晴賢との安芸折敷畑(おしきばた)の戦いでは楢崎東市允と二人で勇戦し、楢崎は林主水正を、長は刺川(さすかわ)右近将監を討取った。雲州馬潟原(まかたはら)の戦いでは川添美作守を斬った。数代にわたって翁山城に住む。信隆は元信の子で母は広橋兼秀の子である。兼秀が大内氏のもとに寄食していた時、桃園頼顕の娘に通じて女児を儲けていたのだ。頼顕は讒言による難を避け翁城下に隠れ住んだ。元信は広橋兼秀の子であるその女児を望んで貰い受け寵愛した。信隆はその女が産んだのである。信隆は父に譲られて矢野(上下町矢野)を領地とし、名字として名乗った。毛利家による三村氏討伐では、新見松山の両城攻略を援護し功績があった。その他少なからず武勲があった。四十歳で亡くなったという。近年府中に隠れ住んだ長谷部昌益はこの支族で、読書を好み、『吉備津宮略記』を著した。今考えてみると、長九郎左衛門信康が永享九年(1437)の『永享九年十月二十一日行幸記』(後花園天皇が将軍足利義教の室町第に行幸した記録)で、布衣侍(ほいざむらい)十人の中にその名を確認できる。長氏は北国に宗家があるが、その一族ではないか。
様々な情報が集約されている。毛利家のもとで活躍した様子は『後太平記』という軍記が出典のようだ。貴種とのつながりもあるという。どこまで本当なのだろう。後花園天皇の行幸記は確かな記録だが、長九郎左衛門信康と元信とどう関係があるのか。いずれにしろ長氏一族は、能登だけでなく幕府の奉公衆としても活躍した名族である。調べてみると能登以外では、ここ備後だけでなく但馬や伯耆でも足跡を確認できる。
長谷部まつりで信連行列は長谷部神社を出発する。その長谷部神社は鳥居や燈籠が倒壊したそうだ。民生が安定したら一日も早く復旧工事が行われ、華やかな時代絵巻の熱気で復興を祝ってほしい。長氏は地域のアイデンティティなのだから。