風情ある観光地といえば城下町で、街路や町並みの淵源を江戸時代に求めることができる。何万石の城下町であったことは今も市民の誇りであり、都市のアイデンティティとなっている。加賀百万石の金沢はその代表格と言えよう。
諸侯の城下町ではなく、徳川家の天領であったことを誇りにしている町もある。このたびの能登地震で大打撃を受けた輪島市門前町黒島地区は、廻船業で栄えた天領であった。黒島天領祭という盛大なお祭りは市の無形民俗文化財に指定されている。
府中市上下町上下に「天領上下代官所跡」がある。今は広い更地になっているが、かつては上下町役場があったようだ。地域の政治的な中枢は長くこの地に置かれていた。今の府中市上下支所はJR上下駅近くにある。
昭和29年建立の石碑には「天領陣屋跡」と刻まれている。代官所とその管轄下の天領には、どのような歴史があるのだろうか。説明板を読んでみよう。
広島県史跡 天領上下代官所跡
府中市上下町上下字田中四六六番地一の一部 四六六番地二・三
昭和十六年三月十日指定
元禄十一年(一六九八)、福山藩十万石(備後七郡と備中の一部)の藩主水野氏が断絶し、翌年に再検地された結果、旧福山藩領の石高は十五万石と算出されました。
元禄十三年(一七〇〇)、旧福山藩領のうち十万石が松平氏に与えられると、残り五万石の幕府領は上下と備中笠岡で支配することになり、この地に代官所(陣屋)が設置されました。初代代官は曲淵(まがりぶち)市郎右衛門で、安那郡・神石郡・甲奴郡の七十一か村(約四万石)を管轄しました。
享保二年(一七一七)、備後の幕府領のうち、約二万石が豊前中津藩領となり管轄地が縮小したことから、上下代官は廃止され、大森代官所(島根県大田市、石見銀山も管轄)の出張(でばり)陣屋となりました。そして、明治元年(一八六八)に廃止されるまで、出張陣屋として存続しました。
その後は、平成十九年(二〇〇七)に府中市上下支所が移転するまで、学校や役場として利用されました。
平成二十年(二〇〇八)から三か年の発掘調査により、石垣や礎石など、陣屋時代の遺構が確認されています。
令和二年三月 府中市教育委員会
令和4年に築城400年を迎えた福山城は鉄板張り天守を復元し、藩政時代に遡及するアイデンティティを強固にした。福山城下町を造った水野家五代の評価は今も高い。というのも、公称石高十万石は実高十五万石だったのである。これは、新田開発という努力の結晶に他ならない。
5代勝岑(かつみね)は父の急死により9か月で家督を継ぎ、初めて江戸へ向かう途中で病に罹り亡くなった。1歳3か月という幼さである。水野家は断絶となり、代わって奥平松平氏の松平忠雅が入封した。この時、十五万石のうち五万石が収公され、ここ上下は天領となったのである。
備後唯一の代官所の初代は、曲淵市郎右衛門昌隆(よしたか)である。曲淵氏は甲斐武田氏旧臣の旗本である。武田信玄・勝頼に仕えた曲淵吉景が有名で、系譜は吉景-吉清-吉門-吉長=昌隆(武田氏旧臣雨宮氏からの養子)となる。昌隆の実父雨宮寛行の実父は、曲淵吉清の子吉重である。
曲淵昌隆は『寛政重脩諸家譜』巻第百八十一清和源氏(義光流)「曲淵」に、元禄八年十二月十一日(西暦では1696年)に代官となったことが記録されている。管轄は畿内筋だったようだ。ここでの仕事ぶりが評価されて、上下代官を命じられたのだろう。
豊前中津藩は小笠原氏5代藩主長邕(ながさと)の夭折により無嗣改易となり、享保二年(1717)に丹後宮津から奥平昌成が入封した。この時、備後の天領うち約二万石が中津藩に与えられた。このため上下代官所は廃止され、大森代官所の出張陣屋となったのである。
約四万石を管轄する代官所が設置されたのは、江戸中期の17年ほどに過ぎない。それでも、その事実こそが上下のアイデンティティとなっている。2月23日、間もなく天領上下ひなまつりが開催される。天領のもと、商業や金融で栄えた面影を偲ぶことができるだろう。白壁の町並みを散策したら、代官所跡にも足を延ばしていただけると幸いである。