「大和豊年米食わず」という言葉がある。大和平野に適量の雨が降って豊作になると、他地域では長雨や洪水で凶作になる、ということだ。逆に他地域で豊作の折は、大和平野は水不足に苦しむとこととなる。いかに水を確保するか、干ばつとの闘い、それが奈良盆地(大和平野)の人々の大きな課題であった。今回はその解決策を提案した憂国の志士の紹介である。
五條市須恵二丁目に「贈正五位乾十郎(いぬいじゅうろう)先生顕彰碑」がある。元治元年(1864)七月十九日に幕府により37歳で処刑されたが、明治24年に靖国に合祀され、明治31年に正五位を贈られた。
若くして亡くなったが、没後に高く評価された乾十郎とは、どのような人物だったのか。説明板を読んでみよう。
この石碑は、乾十郎の功績を称えるために昭和十二年(一九三七)に建てられた。十郎は五條で医者をしながら、「真珠円」という目薬を売っていた。また吉野川で下流へ流す材木に対して紀州藩が税金をかけていることをやめさせようと運動したり、吉野川分水の計画を立てたりするなど大和の人々のために奔走した。
目薬を売っていた医者だという。それにとどまらず、地域振興に尽力をした活動家でもあった。ここでは「吉野川分水」に注目したい。
奈良県には大和川と吉野川という大きな川があるが、北の大和川流域には降水量が少なく、南の吉野川流域には多い。したがって、吉野川の水を大和川流域に引き込めば、奈良盆地の水不足は解消できるのだ。元禄年間にはすでに、その構想があったという。
生まれては立ち消えていった分水計画を、壮大なスケールで提案したのが、乾十郎である。彼は文久三年(1863)3月、自らの案を朝廷の有力者・中川宮に提案した。その内容が『贈正五位乾十郎事蹟考』(大正6)に掲載されている。
吉野五條の間なる下淵村車坂に隧道を開鑿し吉野川の水を大和平野に通しこれを淀川に放流し水運の便と灌漑の用水を得国内の畑を田となし用水池を耕地に変し収穫弐拾余万石増加の法を立て以て京師の糧食に供し一朝事あり外夷大阪港を閉塞するも帝都食料の窮乏を防がんとす。
万が一、外国勢に大阪港をふさがれ、京への食糧供給が滞っても、奈良盆地で20万石増産しておれば心配ない。幕末期の対外的な危機感を時代背景とする食料安全保障の主張である。これには、吉野川分水を実現するほかない。トンネルを掘って水を北へ流し、水路を淀川につなげる。灌漑とともに水運網を整備し、産業振興を図ろうというのだ。
この計画は三条実美らの公卿にまで伝わったものの、実現には至らなかった。だが食糧増産が急務となった戦後に工事が始まり、昭和62年に吉野川分水が完工した。取水口を「下渕頭首工」といい、乾十郎の計画とほぼ同じルートで導水されている。
乾十郎は悲願であった吉野川分水の先駆者である。それゆえ正五位が贈られたのか。そうではない。十郎の家を訪ねてみよう。
五條市五條一丁目に「乾十郎宅址」がある。
ここにある説明板には、地域振興にとどまらず、国の在り方を根本から変えようとした十郎の姿が記述されている。
乾十郎は文政十年(一八二七)に五條で生まれた。森田節斎や梅田雲浜に学問を、また節斎の弟の仁庵に医術を学び、尊王の志士に成長。五條代官所に程近いこの場所に家を構え医者をしていたが、同時に代官所の動きを探り、天誅組の代官所襲撃を助けたと言われている。
そう乾十郎は、文久三年(1863)8月17日に代官所を襲撃した天誅組の志士なのである。八月十八日の政変後の転戦では軍医を務めたが、進退窮まった9月下旬から天誅窟(奈良県吉野郡川上村伯母谷)に同志とともに60日余り隠れ住んだ。その後の様子を知るために、十郎の墓を訪ねた。
五條市岡口一丁目に「乾十郎之墓」がある。
ここにある説明板には、十郎の最期が記されている。
乾十郎は、井澤宜庵とともに天誅組に参加した五條在住者の一人である。天誅組が五條に入る際の道案内を勤め、事件後も生き残って大阪に隠れ、偽名を名のって医者をしていたがついに幕府の役人に捕まり、元治元年(一八六四)に京都六角の牢獄で処刑された。享年三十七歳。
大坂西成郡江口で楠本橙庵と名乗って町医者をしていたが、引用文のように処刑された。辞世は「いましめの縄は血汐に染まるともあかき心はなどかはるべき」と詠んだ。十郎の兄竹次郎の孫である材三の書で、顕彰碑の裏に刻まれている。
「あかき心」は、赤心、まごころのことだ。勤王、国を思う心は決して変わることがない。そう言い残して十郎は死んだ。明治の御代は、ほんの数年先であった。正五位の贈位は、明治維新の魁として評価されたのである。
来年は明治維新から150年となる。維新関係の志士が脚光を浴びるだろう。乾十郎も再評価されるとよいが、土地改良事業により食糧増産を図り、対外危機に備えたリスクマネジメントの先駆者と注目してもらいたい。