戦国や幕末はロマンで語られるが、本当は血で血を洗うような、平和とは真逆の時代だった。特に幕末はテロルの嵐が吹き荒れ、多くの優秀な人材が失われている。激しい戦いも、テレビを前に対岸の火事のように眺めるから面白いのであって、渦中に身を置いていたら命の保証などない。
次々回のNHK大河が西郷隆盛に決まった。前回の大河は長州が舞台だったから、今度は薩摩ということでバランスを取ったのだろうか。薩長VS幕府で語られがちな幕末だが、全国各地の藩でも、改革派VS守旧派の激しい争いがあった。今回は紀州藩の様子をレポートする。
和歌山市一番丁の和歌山城、追廻(おいまわし)門の近くに「田中善蔵尽忠の碑」がある。
田中善蔵は文政八年(1825)の生まれで、藩校の教授や藩主の政策秘書を務めるなど、たいへん優れた人材だったようだ。
時代は幕末、長州藩と幕府との対立が深まるなか、紀州藩は佐幕の立場を貫いていた。慶応二年(1866)の第二次長州征伐では、藩主の徳川茂承(もちつぐ)が先鋒総督を務め、広島まで出陣した。このため藩財政が悪化し、財政の立て直しとともに、今後の戦いに向け兵器の近代化の必要に迫られていた。
田中は紀州藩の生き残りをかけて、改革を強力に推進する。人材育成では福沢諭吉を招聘しようと動き、財政改革では大胆な俸禄削減を実行しようとした。
だが、急激な改革に反発はつきものだ。「物価高騰の折柄、給与カットなどもってのほか…田中さえいなければ…」そう考える藩士も現れてきた。そして、事件は起きた。碑文には次の文字がある。
乃瞯先生之登城要撃於外郭扇芝之傍先生単身奮刀捍禦遂斃實慶應三年十一月十二日也行年四十三
田中は追廻門近くの「扇之芝」のあたりで、何人もの藩士に襲われ殺された。まだ43歳だったから、生きていれば明治維新以後も要職に就いていたに違いない。
「盡忠之碑」との揮毫は「正二位侯爵徳川茂承卿」による。田中の忠義を旧藩主が認めたのである。この碑は明治18年に秋葉山に建てられたが、明治百年の節目に今の場所に移された。
この凄惨な事件について、移建時に建てられた副碑では、次のように説明されている。
この碑は、今から約百年前の慶応三年(一八六七)この地において刺殺された田中善藏をたたえた碑です。
当時、藩政改革を強力に推進していた田中善藏は、反対派の憤激をかい、小坂、東使、衣笠、上田、赤見らの襲うところとなったもので、その後襲撃した人たちも処刑されました。
今にして考えれば、改革派、保守派とはいえともに国を憂え、藩を思う気持ちにかわりはなく、この事件はそのまま近代日本の夜明け前の苦悩を象徴する悲劇といえましょう。
そうだったのかもしれない。憂国の情、藩への忠義は、どの武士も抱いていたのだろう。改革派と保守派の争いは、昨年の大河『花燃ゆ』でも、高杉晋作VS椋梨藤太として描かれた。椋梨は処刑されたが、時運に恵まれなかっただけで、人一倍忠義を尽くした武士であった。
田中の志向した改革は、近代化である。方向性は決して間違っていない。だが、風雲急を告げる当時にあっては、熟議を重ね、理解者を徐々に増やす…など、望むべくもなかったろう。
あと2年で明治維新は150年を迎える。かつてテロルの横行した時代があったという過去の教訓を活かし、今こそ熟議の必要性を認識すべきである。
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