今年の10月12、13日に第9回全国国分寺サミットが津山市で開催された。美作国建国1300年記念事業の一環である。全国の国分寺跡を持つ自治体が一堂に会して、史跡活用などについて情報交換をしたようだ。計13の市町が参加した。
まてよ、国分寺は全国に60数か所あるはずだが、13市町とは少ない。今日紹介する国分寺跡は話題になったのだろうか。
姫路市御国野町国分寺に「播磨国分寺跡」がある。国の史跡に指定されている。
今も国分寺という大きな寺があるが、かつての国立寺院の国分寺はさらに広大であった。その伽藍配置は、ふるさと歴史の広場に再現されている。
塔の心礎は凸型=出枘(でほぞ)式である。よく見かける凹型=枘穴(ほぞあな)式ではない。ほぼ原状のまま残存しているというから価値がある。
この国分寺は、姫路市教育委員会が編集した『郷土史ひめじ』という小学校6年生向けの副読本(昭63)に、次のように記述されている。
現在の国分寺は、牛堂山国分寺といい、江戸時代の建物です。境内も狭くなっていますが、奈良時代には、東西・南北ともに約二百メートルもある正方形の広大な土地に、南大門・中門・金堂・講堂に七重の塔を備えた大きな寺で、二十人の僧が住んでいました。
中でも、七重の塔は、一辺が九・五メートルの平面の上に、五十七メートルもの高さでそびえていたといわれています。今でも土壇の上に残る十七個の大きな礎石が、むかしの国分僧寺の壮大さをしのばせています。
この旧寺域は国の史跡に指定されていますが、指定地の西南の隅を山陽本線・山陽新幹線が横切り、また、民有地が入り交って整備されていません。近く整備計画が進められ、将来、史跡公園として保存されることになっております。
平成になって整備が進み現在のような史跡公園になったのだろう。『郷土史ひめじ』には、整備前で草の生い茂った史跡の写真が掲載されている。これはこれで、夏草や聖武天皇の夢のあと、で風情があるが、現在の史跡公園も明るく気持ち良い場所である。
姫路市御国野町国分寺に「播磨国分尼寺跡」がある。
同じく『郷土史ひめじ』の記述を読んでみよう。
現在の国分寺から六百メートルほど北に、国分尼寺が建てられ、尼僧が十人いたようですが、くわしいことは分っておりません。遺跡といわれる所から、創建当時のものと思われる瓦が出土していますが、その文様は、まことに力強く流麗です。国分僧寺の瓦の文様もほぼこれと同じです。
写真の説明板から右の辺りに金堂がありその先に中門、南大門があったようだ。寺域は東西約134m、南北約180mの広さと推定されている。この国分尼寺はいつまで存続したのだろうか。そうと言われなければ分からないほど普通の風景に変貌している。
聖武天皇の鎮護国家構想を知るには、東大寺の大仏を訪れるとよい。大仏の巨大さは構想を体現しているかのようだ。だが、播磨国の国分僧寺、尼寺の広大さ、そしてそれが全国各地に建造されたことを考え合わせると、天皇の構想は一層壮大なものだったと感じるのである。