こう寒いと氷などどうでもよく、冷凍庫の氷を切らして久しい。代わりに外が凍っている。暖房の前から離れられず何をする気にもならないから、夏がやっぱりいいなと思っている。しかし、夏の暑い盛りにはそんなことはすっかり忘れ、冬に寒くても動けば温まるが夏の暑さは逃れようがない、とバテている。
奈良市春日野町に「氷室神社」が鎮座する。夏の盛りに氷室神社に参拝した。東大寺へ向かっていたのだが、名前に惹かれて立ち寄った。すると、どうだ。ドライミストの演出である。濡れない霧を仰ぎながら参道を進むと背筋が伸びた。神様に心から感謝したのは言うまでもない。
御祭神は闘鶏稲置大山主命(つげのいなぎおおやまぬしのみこと)といい、氷室を創始した神様だ。神社の由緒書を読んでみよう。
元明天皇の御世、和銅三年(七一〇)七月二十二日、平城新都の左京、春日(かすが)の御蓋(みかさ)の御料山(春日山)に鎮祀され、盛んに貯水を起し冷の応用を教えられた。これが平城七朝の氷室で、世に平城氷室とも御蓋水室とも春日の氷室とも称せられた。春分の日には氷室開きと献氷の祭祀がいとなまれ、毎年四月一日より九月三十日迄平城京に氷を献上せられた。
奈良朝七代七十余年間は継続せられたが、平安遷都後はこの制度も廃止せられ、遂に百五十年を経て、清和天皇の御世、貞観二年二月一日現在の地に奉遷せられ、左右二神を増して三座とせられた。
水が氷ではないかと思われる部分があるが、要諦は次のことだ。氷室社は平城遷都時に創祀された。社地は現在地ではなく春日山の麓であった。そこには氷室があり献氷祭が行われていた。しかし、献氷祭は平安遷都を機に途絶えてしまった。
春日大社北部の水谷神社の南東80~100mの辺りには、氷室跡と思われる円形の土坑が三基あるという。氷は水谷神社西方の水谷橋近くにあった氷池から採取したようだ。そして氷室社は春日大社二ノ鳥居の西方に鎮座していた。平城京は冷凍庫完備の先進的な都会であった。
献氷祭が復興したのは明治45年。京都の龍紋氷室という製氷会社(現在のニチレイへと続く)と大阪氷業界の力によるもので、現在も写真のように業界の崇敬が篤い。
今では氷があることの有難味を感じることが少なくなっているが、夏の暑さにどんどん融けていく氷を思い起こすと、かつての貴重さは容易に想像できる。いや、今は寒いのでちっとも分かってないが、夏になったら思い出そうと思う。