「幻の古代山城を発見!」というニュースを、いつの日か聞きたいものだ。というのも、『続日本紀』という公的記録に記載されながら、その場所が特定されていない山城が、備後国には二つもあるからだ。
それは「常城(つねき)」と「茨城(いばらき)」。茨城はさっぱり分からないが、常城は「常」という地名が福山市新市町にあることから、ある程度の場所は推定できる。今日は幻の常城の探訪である。
府中市本山町に「青目寺(しょうもくじ)跡 東御堂地点」がある。県指定の史跡である。
人工的な平坦地であることは、見ただけで気付く。府中市教育委員会の説明板があるので読んでみよう。
南東に延びる尾根筋の鞍部を削平して平坦面が作られている。平坦面の中心には、石で周囲を囲い1段高くした基壇が残っている。基壇の内側には礎石が並んでいる。方形のお堂が建っていたと思われる。
青目寺は江戸中期に同じ山の中腹に移転している。門前の説明板には、かつての様子が次のように記されている。
青目寺は、弘仁四年(八一三年)四国屋島寺の青目上人が開基し、はじめ七ッ池附近にあって、山上寺院として栄え山麓にも十二坊をしたがえる程、繁栄していたと伝えられています。
四国の屋島といえば、「瀬戸内防衛システム(SDS)」で紹介したように、屋嶋城(やしまのき)という古代山城がある。廃城となった山城が寺院に転用されることは、よくあることだ。東御堂地点は山城の望楼ではなかったか、と見る向きもある。
東御堂地点の直ぐ近くの尾根筋に「常城」に関連するのでは、と思われる石が転がっている。府中市本山町と福山市新市町大字常の境にあたる。神籠石のように美しく並んでいないので、何ら関係ないかもしれない。列石や水門が発見されると決定的なのだが。
どうしようもないので、『続日本紀』で「常城」を確認することにしよう。元正天皇養老三年(719年)十二月十五日条である。
戊戌。停備後国安那郡茨城。葦田郡常城。
備後国安那(やすな)郡の茨城(いばらき)と葦田(あしだ)郡の常城(つねき)を停(とど)む。記録はこれだけだ。このあたり一帯は旧芦田郡なので間違ってはいない。
東御堂地点は起伏が大きいが、少し歩いて七ッ池周辺に出ると、けっこう平坦となる。急斜面の山上に平坦地。屋島もそうだが、古代山城にはよく見られる地形だ。そういえば、青目寺を開いた青目上人は屋島からやって来たという。もしかすると、古代山城を寺院にリノベーションする専門家だったのかもしれない。