イスラエルがイスラム組織ハマスからの攻撃に対して大規模な報復を行っている。欧米主要国はイスラエルの自衛権を支持しているが、パレスチナへの支援も維持しようとしている。約580万人といわれるパレスチナ難民は、今回報復攻撃を受けたガザ地区をはじめ、ヨルダン川西岸地区、ヨルダン、シリア、レバノンにいる。こうしたハマスと無関係な人々は、生活支援を必要としているからだ。
難民をどのように保護するのか。同じ難民でもウクライナ出身とアジア・アフリカ系とでは支援に格差があるのが現実だ。我が国は難民の受け入れ自体に消極的である。その我が国もかつて、朝鮮半島からの難民を受け入れ、彼らの故国復興を支援していたことがあった。百済遺民である。
岡山市東区草ケ部にある小廻山の頂上に、三等三角点「草ヶ部」がある。標高198.42mである。
小廻山に続いて北側に大廻山196mがある。二つ合わせて大廻小廻(おおめぐりこめぐり)、ここには古代山城があったという。山から北側に下ったところに説明板がある。読んでみよう。
国指定史跡 大廻小廻山城(おおめぐりこめぐりさんじょう)跡
平成17年3月2日指定
大廻小廻山城跡は『日本書紀』などの歴史書に記録のない山城で、総社市の「鬼ノ城」と同じく7世紀代の古代山城と考えられます。
全周3.2km、城内の面積約38.6haを測ります。
整然と並べられた列石と版築盛土(はんちくもりど)からなる土塁を周囲に巡らせており、土塁が谷部を渡る3箇所には石積みの防塁を伴った水門が造られています。城門や城内の施設についてはわかっていませんが、西に備前国府、北に国分寺・国分尼寺や山陽道、南には国府付属の港といわれる「岩間津(いわまのつ)」と、政治的な中枢や交通の要衝を見渡す立地となっており、663年の「白村江の戦い」の後、国内の防備を固める目的で築城された城のひとつとする説が有力です。
平成18年3月 岡山市教育委員会
我が国の友好国、百済が滅亡したのが660年。助けを求める遺民が我が国に渡ってきた。その期待に応えたのが斉明天皇・中大兄皇子の親子である。百済遺民の故国復興運動を支援して、朝鮮半島への派兵を決定したのである。
女帝は陣中で没したが、遺志を皇子が継ぎ、663年に倭国・百済遺民連合軍、唐・新羅連合軍が陸と海で激突する。ところが白村江の海戦で我が連合軍は大敗北を喫し、這う這うの体で逃げ帰ることとなった。捕虜となって唐に抑留された倭人も多かったという。
国家存亡に関わる危機的状況のなか、中大兄皇子は天智天皇として即位し、国家体制を刷新するとともに、強固な防衛体制を築いていく。その一つが大廻小廻だったのだ。上記説明板の付近に遺構はないので西へどんどん進み、水門を訪ねよう。
草ケ部と瀬戸町観音寺の境あたりに「一の木戸」がある。
人為的に積まれたことが分かる石塁が見られる。かつては木でできた戸があったのだろうか。それとも城(き)の戸口だったのだろうか。説明板を読んでみよう。
大廻小廻山城(一の木戸)
大廻山、小廻山一帯を含むこの山城は石塁がある西側の三つの谷を取り込んだ総延長約三、二キロメートルの土塁(外郭線)で築かれている。七世紀に国家規模で築かれた朝鮮式山城の一つという説がある。石塁はそれぞれ一の木戸、二の木戸、三の木戸とよばれている。
この一の木戸は、防護壁であるとともに城内の水を排水するための施設でもあり、石塁の前面には排水口が口を開けている。石材は、近辺から採取できるホルンフェルスや花崗岩が利用されている。構築当初の一の木戸は、現存している石塁より三~四段ほど高く、その上に土塁状の盛土が覆っており、幅約六メートル、高さ五~六メートルほどの規模であったと推測される。
岡山市教育委員会
ここには防衛と排水の機能を兼ね備えた石塁があった。その高さは5~6mあったという。北側に古代山陽道が通過し、西側は備前国府に続いている。どのくらいの期間、ここを防衛していたのだろう。結果的には何も起こらなかった。
百済遺民の故国復興を支援して力及ばなかった日本。イスラエルはガザ北部の住民に南部へ退避するよう勧告した。地上作戦が始まるらしい。難民はさらなる難民となっていく。我が国に何かできることはあるのだろうか。
ハマスの背後にはイランが、イスラエルの背後にはアメリカがいる。多くの国は双方に自制を求めている。13日に開催された国連安全保障理事会でロシアは「即時停戦を」と呼びかけたが、「あんたのとこやろ」とツッコまれている。
焦点はハマスを説得できるのは誰かということだ。イスラエルやアメリカにその気はさらさらないし、パレスチナ暫定自治政府にはその力がない。ならばエジプトかトルコかカタールか。一刻も早い介入が求められている。