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治に居て乱を忘れず

都道府県持ち回り開催で二巡目が進行している国体は国スポと改称されたが、知事からは「廃止」の声も上がっている。莫大な費用をかけてインフラ整備をしたはいいが、その維持に困っているとか、国内最大のスポーツイベントでありながら、最高レベルの選手は他の大会を目指しているとか、様々な問題が指摘されている。

戦後に始まった国体・国スポは、2035年から三巡目に入るという長い歴史があり、地方振興に大きな役割を果たしたのは確かである。戦前に同様な役割を担ったのは、陸軍特別大演習だったという。明治25年から昭和11年まで地方持ち回りで34回開催された。本日は、明治43年に岡山で行われた9回目となる陸軍特別大演習ゆかりの地である。

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岡山市東区宍甘(しじかい)の宍甘遊園地に「明治天皇宍甘御野立所」と刻まれた標柱があり、写真では奥の方に見えている。昭和十三年一月の建設である。

説明板も何もないが、かつては国指定文化財だったという。石碑側面には次のように刻まれている。

史蹟名勝天然記念物保存法に依り史蹟として昭和十一年十一月文部大臣指定

戦後の民主化に伴い昭和23年に指定解除となり、今日に至っている。明治がはるか遠くになりにけりの現在、近代史の一側面として顕彰する意義があるのではないか。写真手前の顕彰碑には、篆額「龍駕駐蹕之地」とともに、次のような碑文が刻まれている。

龍駕駐蹕記念碑
明治四十三年十一月 車駕親臨大閲兵於吉備之野
駐蹕於上道郡古都村宍甘丘上郡民感激以為盛事立
石表聖蹟請参謀総長奥大将保鞏書篆額以臣兵衛時
為第十七師団長与其役請文記之竊惟 聖徳広大天
覆地戴武威宣颺風行草偃中外悦服咸享昇平而歳時
大閲不敢或怠者所以居治不忘乱而民之感念聖蹟孺
慕弗措不啻有甘棠勿伐之風豈非上下感孚情如父子
者耶嗚呼是我国体之所使然宜矣万世一系与天壌無
窮也乃不辞謭陋謹記事由以諗来玆
第四師団長陸軍中将従三位勲二等功二級一戸兵衛撰并書

明治43年(1910)11月、吉備の野における陸軍特別大演習をご覧になる天皇のお車は、上道郡古都村宍甘の丘の上におとどまりになった。郡民は感激して盛大な催しを行い、聖蹟を示す石碑を建て参謀総長奥保鞏(おくやすかた)大将にお願いして篆額を書いてもらった。そして第十七師団長である私一戸兵衛(いちのへひょうえ)は、その大役を与えられるとともに撰文と書を依頼された。ひそかに思うに、天子の徳は広大で、天が万物を覆い地は万物を載せるようにおおらかである。武威を宣揚すれば、風に草がなびくように国の内外は喜んで服し、ことごとく受け入れて世が平和に治まった。そして、毎年ご観閲を怠ることが決してないのは、平和な世にあって乱世を忘れることがないためである。民衆が聖蹟を大切にする気持ちはやむことなく、『詩経』にある「甘棠勿伐」の故事(敬愛する為政者ゆかりの木を切るな)にとどまらない。上下がまごころを通わすのは、まったく親子のようである。ああ、これこそ我が国体のおかげであり、万世一系、天壌無窮と言われるのももっともなことだ。そこで、浅はかなのをかえりみず、ここにしばらく考え、謹んで由来を記した。

意訳である。確かにこの神を崇めるような言い回しは戦後民主主義に相容れないが、当時の時代思潮である家族国家観をよく表している。この年には大逆事件があった。明御神である明治大帝は、実際にどのような動きをされたのだろうか。『明治四十三年陸軍特別大演習岡山県記録』で追ってみよう。

明治43年11月10日、新橋駅からご乗車になった大元帥陛下は静岡、名古屋とお泊りになり、12日午後4時57分に岡山駅にお着きになった。そして大本営が置かれた岡山後楽園で、山県有朋元帥、大山巌元帥、寺内正武陸軍大臣らにお会いになった。御座所は明治十八年にもお泊りになった延養亭である。当時の建物は戦災で失われた。

13日には倉敷市西岡の行願院にある「西岡御野立所」、14日には岡山市北区惣爪にある「惣爪御野立所」で演習を統裁された。この日はかつての岡山藩、鴨方藩、生坂藩の旧藩主家の当主にお会いになった。そして、いよいよその時がやって来る。

十一月十五日 快晴
大元帥陛下午前七時二十分大本営御出門同七時三十五分岡山停車場御発車西大寺停車場にて御下車車演習地に向はせられ演習御統裁あらせられ了りて順路を同十一時二十三分岡山停車場に御着車同十一時三十七分大本営に還御遊はされたり

16日は14日と同じく吉備津駅にご到着。演習ご統裁の後、鯉山小学校における参謀総長の講評に臨席された。今も吉備津駅には「明治天皇御駐車跡」、小学校には「駐蹕之碑」の石碑が置かれている。

17日には観兵式(県総合グラウンド)、大宴会が行われた。大宴会場は下石井の葉煙草製造所敷地が充てられたというから、後の日本たばこ産業岡山工場、現在の杜の街グレースの場所である。

18日からは帰途の旅で、午前7時20分に岡山駅からご乗車になった大元帥陛下は名古屋、静岡とお泊りになり、20日に新橋駅にお着きになった。

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大元帥陛下がご覧になった風景を新幹線が走り抜ける。今や岡山から東京への出張は日帰りも可能だ。明治18年の山陽道巡幸では山陽本線はなく、東海道本線も全通していなかった。その折は、横浜から防府の三田尻まで、三田尻から厳島を経て廿日市の阿品まで、広島の宇品から岡山の三蟠まで、神戸から横浜までと、ほとんどが船旅であった。時を経た二度目の岡山は、片道二泊三日の鉄道旅であった。整備された交通網に我が国の発展を実感されたことであろう。

『明治四十三年陸軍特別大演習岡山県記録』によれば、行幸に際しては道路や橋梁を改修し、水を撒いて砂塵の飛散防止に努める吏員と人夫を配置したという。大演習のおかげでインフラが整備されるのは、後の国体(国スポ)と似ている。地方にとっても予算獲得の好機だったのかもしれない。

明治天皇に象徴される発展する近代日本。人口は急増し韓国を併合して版図も広がっていた。近代が残した光と影を、この聖蹟を前に考えるのも意味があるのではないか。そんなことを考えていると、また新幹線がバチバチ音を立てながら通り過ぎて行った。


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