私の母方の祖父は日中戦争で戦死している。高校生の頃、その祖父の戦友からのお招きで、戦友会か慰霊祭か、何かの会合に母親と一緒に参加したことがある。場所は姫路の自衛隊駐屯地であった。私が道からそのまま敷地内へ入ろうとした途端、守衛さんに呼び止められ用件を聞かれた。
今では、そんなの当たり前だろ、と思うのだが、訳の分かっていない当時は大変びっくりした。怪しい者ではありませんが、と言いたかったが、守衛から見れば素性の分からぬ者であったことは否めない。それ以来、大きな施設には門番がいる、という常識を身につけたのである。
津山市西寺町に「成道寺(じょうどうじ)山門」がある。
立派な門だが、これたけに注目してはならない。門の脇にある切戸、その隣にある小さな部屋。いったい何だろうか。説明板を読んでみよう。
成道寺山門
津山市指定重要文化財
この山門は普通の仁王門とは異り、堅固な扉と北側に番士部屋(かちべや)をもった厳重な構えになっています。この門は二本の本柱と二本の控柱とで切妻屋根を支えた構造の薬医門である。成道寺は慶長九年(一六〇四)津山藩主森忠政の建立した浄土宗の寺で、智山を開山とする。享保四年(一七一九)雷火に焼け、その後元文四年(一七三九)と宝暦元年(一七五一)火災を被り、明治三十五年(一九〇三)二月元津山藩庁ならびに北条県庁の門として使用されていたものを払下げを受けて山門としたものである。
この日、私はおそるおそる切戸をくぐって中に入らせてもらったが、番士部屋からは誰も出てこなかった。お参りにやってくる庶民をチェックする門番は不要なのだろう。
門の造りが厳めしいのは、かつて津山藩庁及び北条県庁の門だったからだ。現在、どこの県庁でも守衛さんがいらっしゃる。不当な圧力や暴力によって行政がゆがめられてはならないからだ。ただ、菅首相のご長男からの接待攻勢だけは総務省の守衛さんでも阻止できなかったと聞く。
北条県は明治四年から九年にかけて美作地域を治めた行政機関である。トップの参事についたのは薩摩藩出身の淵辺群平という軍人で、のちに西郷隆盛ととも決起し、政府軍との戦いで戦死する。
また、小学校や被差別部落を襲った血税一揆は北条県一円に広がる大騒動となった。明治六年のことである。
北条県の後継自治体である岡山県。その教育部門である県教委は『幕末維新のおかやま』という史跡ガイドを作成している。これに成道寺山門は「北条県庁南門」として掲載されている。血税一揆では蜂起した民衆が津山城下に迫ったというから、この門の番士部屋に詰めていた者は、さぞかし緊張したことだろう。何気ない門に見えて維新史の一断面を伝える貴重な遺構である。
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