憲法の第何条に何が記されているかをスラスラ言える人は少ないが、全103条のうちいくつか有名な条文がある。有名ランキングトップは、やはり戦争放棄を規定した9条だろう。現実と合っていないだとか平和の礎だとか、何かと話題になることが多い。
他の条文なら天皇の地位と国民主権を規定した1条、森会長の女性蔑視発言や丸川大臣の夫婦別姓反対との関連がありそうな24条が知られている。重要な条文は数あれど、ランキングの次点はやはり25条だろう。すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。中学校の公民の授業で教わった。
岡山県都窪郡早島町早島、独立行政法人国立病院機構南岡山医療センターへの上がり口近くに「朝日訴訟記念碑」がある。
この記念碑はかつて無津交差点近くにあったから、二号線バイパスで母親の実家に向かう車中から何度も見ていた。「人間裁判」の意味は分からなかったが、何かただならぬものだけは感じた。これが生存権に関するモニュメントだと知ったのは、ずいぶん大人になってからのことである。
「人間裁判」は裁判の原告となった朝日茂さん。この言葉を考案したのは弁護団の中心となった新井章弁護士である。記念碑には副碑が二基あり、左側は「人間裁判」朝日訴訟の経過が記録され、右側では裁判の意義が示されている。右側の碑文を読んでみよう。
碑文
朝日茂のたたかい。健康で文化的な最低生活の保障・人間が人間らしく生きる権利を要求したたたかい。この一点の火花は燎原の火のようにもえひろがり十年にわたる人間裁判・朝日訴訟は日本人民の生存権をまもるたたかいの前進に大きく貢献した。ここに故人の偉業と朝日訴訟のたたかいを永遠に記念して発祥の地早島町にこの碑を建立する。これはまた生命をまもり平和で豊かな生活をねがう明日へのたたかいの炬火である。
一九六八年二月一四日 朝日訴訟記念碑設立委員会 天達忠雄書
天達忠雄(あまだただお)は社会保障政策の研究者で朝日訴訟の支援者である。朝日茂の「人間裁判」は一審に勝訴、二審に敗訴し、最高裁に上告したものの、審理のさなかに朝日が病没してしまう。裁判は後継者によって継続されたが、最高裁は「本件訴訟は上告人の死亡によって終了した」として裁判を打ち切った。
朝日訴訟は最終的に勝利を収めたわけではない。それでも我が国の社会保障史に残る金字塔として記憶されている。どういうことだろうか。朝日茂の墓所を訪ねることとしよう。
津山市西寺町の本行寺に「故朝日茂氏墓所」がある。
墓前の角柱には「人間裁判朝日茂」「守れ憲法第二十五條」、そして第25条の条文が刻まれている。1966年2月14日、三回忌に建てたことが示されている。隣の墓碑はもっと新しく、50回忌に当たる2013年2月14日に建てられた。碑文を読んでみよう。
墓誌
朝日茂 大正二年(一九一三年)七月十八日に津山市京町八十二番地に生れる。戦時中結核を患い国立岡山療養所にて療養中、低額な生活保護基準は生存権を定めた憲法二十五条に反するとして東京地裁に提訴「人間らしく生きる権利」とは何か、を真正面から問いかける。この裁判は「人間裁判」と呼ばれた。病床にて唯一人権力に立ち向うその姿に多くの人が感動し国民的な訴訟支援運動が巻き起こり昭和三十五年(一九六〇年)に一審で勝訴した。保護基準は判決翌年から引き上げられることとなり、その基準を「ものさし」として国民の最低生活の改善がなされた。この訴訟は今なお社会保障運動の「みちしるべ」となっている。中央大学卒、著書に『人間裁判 朝日茂の手記』、本行寺境内の朝日家墓地に永眠する。昭和三十九年(一九六四年)二月十四日没。
妙法 慈正院恵仁日香居士 享年五十歳
朝日茂は岡山県津山商業学校(今の津商)を卒業後、東京の日満倉庫(今の東洋埠頭)で働きつつ中央大学夜間部に通った。喀血し療養が必要となったことから早島光風園(国立岡山療養所、今の南岡山医療センター)に入院し、ここで終戦を迎える。
当時の療養所内の環境は、現在の患者さまに優しい病院からは想像しがたいほど劣悪で、患者たちは団結して処遇改善を訴えるほどであった。朝日は患者自治会活動のリーダーの一人として活躍し、日本患者同盟岡山支部の副委員長、さらには日患同盟中央委員に選出された。しかし昭和30年、朝日は多量の血を吐いて重症患者となってしまう。
津山市社会福祉事務所は、音信不通だった兄を探し出し、送金を依頼。毎月1500円を送ってもらえることになったものの、うち900円は医療費の自己負担分として差し引かれ、600円が日用品費とされた。いっぽう、これまで公的扶助として支給されていた日用品費600円は支払われなくなった。昭和31年のことである。
朝日はこれでは十分な栄養を確保できないと、県に不服を申し立てたが却下、厚生省にも申し立てたがこれも却下。昭和32年、ついに提訴に踏み切り、これを天達忠雄らの研究者や日患同盟が支えた。
昭和35年に東京地裁は原告勝訴の判決を下した。世に言う「浅沼判決」。血の通った名判決と今も高く評価されている。療養所を訪れた浅沼裁判長は「憲法は絵にかいた餅ではない」と朝日に語ったと言われている。生存権をプログラム規定とは見なさない立場であった。
厚生省は控訴したが、マスコミが生活保護基準の問題を大きく取り上げるようになったせいか、翌年から保護基準を大幅に引き上げる措置を講じた。その後の裁判では原告敗訴となるものの、「国民の最低生活の改善がなされた」と墓誌が評価しているように、朝日茂は実質的な勝利を勝ち得たのである。
「人間裁判」
少し怖いことのように子ども心に感じていたが、「人間らしく生きる」ことを求めた人と「人にやさしい憲法」の運用を目指した裁判官の温かい物語であった。
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