男爵池田長康氏は『貴族院はどうなるか:貴族院改革試案大綱』(昭和十五年、大阪時事新報社)において、世襲議員や多額納税議員の廃止、会派解消など、当時の新体制運動に呼応して貴族院の改革を訴えた。議会開設当時には一定の意義を有していた制度が、今の時代に合わなくなっているというのだ。
貴族院がなくなった現在、池田男爵の改革案に見るべきものはないように思える。しかし参議院が「衆議院のカーボンコピー」と揶揄される現在、時代の趨勢を鑑みて改革を進めようとした男爵の姿勢には学ぶべきものがあろう。
赤磐市周匝(すさい)に市指定史跡「周匝池田家墓地」がある。ここは山上の「空のお塚」で、山麓には「備作国境を守った藩家老」で紹介した「新のお塚」がある。
池田家の岡山藩領北辺に位置する周匝を守ったのは、家老職を務めた片桐池田家である。初代の池田長政は池田恒興の子だが、重臣片桐家の養子になったため、そう呼ばれる。冒頭で紹介した池田長康男爵は、その子孫という位置付けになる。
茶臼山城から伸びる尾根筋にあって、所々見晴らしがよい。この空のお塚は東西二か所に分かれ、写真上の二代池田伊賀守長明公は東の塚、写真中の六代池田近江守長仍(ながより)公と写真下の七代池田大和守長玄(ながよし)公は西の塚にある。説明板を読んでみよう。
空のお塚(上のお塚)
周匝領主 池田家世代
(初代)池田長政-(二代)長明-(三代)長久-(四代)長喬-(五代)長處-(六代)長仍-(七代)長玄-(八代)長紀-(九代)長貞-(十代)長常-(十一代)長準-(十二代)長康
墓碑
空のお塚(上のお塚)と呼び「東の塚」八基と「西の塚」四基とである。
東の塚
二代 池田伊賀守長明
備前州老池田長明の墓(高徳院殿)
三代 池田大學長久
義雲院殿前國子監乾外全龍大禅定門
香昌院殿梅嶽法春大姉(後室)
四代 池田主殿長喬
亮心院殿前典設局一山襌徹大禅定門
嶺松院殿仙室保壽大姉(後室)
五代 池田大學長處
常照院殿前國子監超翁天心大居士神儀
法壽院殿松室貞操大姉淑霊(後室)
池田主殿長宗
真観院殿倚天元凛大居士神儀
西の塚
六代 池田近江守長仍
備前州老池田長仍墓(常徳院殿)
善性院殿涼霄浄圓大姉淑靈(後室)
七代 池田大和守長玄
徳源院殿前和州弧山静翁大居士神儀
良壽院殿延寶昌慶大姉淑靈(後室)
なお初代長政、八代長紀、九代長貞の墓は茶臼山麓の大竜寺址の上に在り「通称新のお塚」と呼ばれる。
初代長政公は下津井城主だった時代に亡くなったので、周匝領主としての初代は長明公である。墓地は東の塚、西の塚、新のお塚へと変遷したことが分かる。長政公は家祖として麓に祀られたのであろう。明治維新は十代長常公の時であった。
二代長明公の履歴は「備作国境を守った藩家老」を見ていただくとしよう。六代長仍公と七代長玄公の時代は18世紀後半に当たる。藩主は岡山藩池田宗家第四代宗政と第五代治政の時代だ。個性的なのは治政で、寛政の改革を主導した松平定信がもてあますほどだったという。「越中に越されぬ山が二つあり、京に中山、備前岡山」と巷間に広く謡われた人物である。ちなみに京の中山は尊号事件の中山愛親である。
池田治政の書を見たことがあるが、豪放磊落な性格を表すかのような大胆な筆遣いであった。上司として仕えやすかったのか予測不能だったのか。長玄公に聞いてみたいものだ。
十代長常公の子、十一代長準(ながとし)が男爵を授けられ、その養子として襲爵した長康公は岡山県令・県知事の千坂高雅の子であった。京都帝国大学の出身というから、血筋も才能も争えない。
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