考えてみれば小野小町ほど魅力的な人物はいない。その魅力は『古今和歌集』仮名序における人物評(紀貫之)で言い尽くされているといって過言ではなかろう。
小野小町はいにしへの衣通姫(そとほりひめ)の流なり。あはれなるやうにて強からず、いはゞよき女のなやめる所あるに似たり。
衣通姫は本朝三美人(他は光明皇后、藤原道綱母)の一人で、小町はその流れを汲むという。受け継いだのは血筋か歌風か、やはり美しさか。世界三大美人なのに本朝三美人に入選しないとはどういうことか。
このブログでは、小町を小町たらしめる歌や落魄の伝説、ゆかりの地を紹介してきた。本日は生まれ、そして亡くなったという故郷を紹介する。
総社市清音黒田に「小野小町の墓」がある。台座には「小野小町塔」と刻まれている。
小町は「あきたこまち」で知られるように、一般的には秋田の出身とされる。というのも平安中期成立の藤原仲実編纂『古今和歌集目録』に、次のように記されているからだ。
小町十八首(中略)出羽国郡司女。或言。母衣通姫云々。号比右姫云々。
出羽国郡司の娘だという。母が衣通姫だというのは紀貫之の受け売りだろう。比右姫は本名だという説もあるが本当だろうか。本日の舞台は出羽から遠く離れた吉備である。土井卓治編著『吉備の伝説』(第一法規)には、次のように記されている。
小町は、都窪郡清音村黒田の生まれで、黒田で死んだという。小町の墓は黒田の山の麓にあり、五輪塔がある。この墓は、もと小野山の頂上にあった。ところが、倉敷市天城の者が、それを盗もうと、担いでおりていると、墓が宙を飛んで行ってしまった。盗んだ男は、腰を抜かしてしまったという。墓は、現在地に飛んできたという。
これはこれで、ほんまかいなの伝説である。都に出て活躍した経緯とか故郷に帰って来た事情は分からないが、墓の由来はとても詳しい。墓がもとあったという場所に行ってみよう。
「小野山の旧墓」は小野山の頂上というが、実際には軽部山の中腹である。麓の墓と同じく、清音黒田地内にある。
2基の塔があったようだが、散乱して無残な状態だ。猪の所為か、はたまた新たな泥棒の仕業か。下のほうには屋敷跡と思しき平坦地と石垣があった。確かに人が暮らしていた痕跡である。
ここに暮らしていた人々が麓に下りるとともに、小町の墓も下ろされたのではないか。このことに備前天城の人が絡んでいたのかもしれない。小町伝説と同じく、どこに真実があるのか全く分からない。
道と思しき痕跡をたどって軽部山の頂上に出ると、二等三角点「黒田」がある。標高は244m。
小野小町ゆかりの黒田地区。かつては田圃で蛭(ひる)に悩まされていたそうだが、小町が蛭封じの歌を詠んでからは快適に農作業ができるようになったという。
「四方の峰流れ落ち来る五月雨の黒田の蛭祈りますらん」確かに三方を山に囲まれ、いくつかある谷川の水が集まり高梁川に流れ込んでいる。どうやら小町は、地域のアイデンティティを構築するキーパーソンだったようだ。