うちには何枚ものレーザーディスクがあり、とりあえずLDプレーヤーも保管している。アナログ方式の最高峰というべき記録媒体であったが、DVDの普及で急速に姿を消し、今やすっかり忘れ去られている。
中世山城も同じだ。総石垣を特徴とする近世城郭の普及と平和の到来で、実戦的な山城は急速に姿を消していく。本日は最末期にして最高度に発達した山城を探訪する。
倉敷市福田町浦田と同市浦田の境に「黒山城」がある。現在は周辺が地続きになっているため分かりにくいが、児島の西北端に位置する。かつては吉備の穴海への進入路を押さえる重要な役割があったに違いない。
60m超の低山だからアクセスは容易だ。東側の墓地から城跡に進むと、土の要塞が現れる。一段高い主郭は土塁に囲まれており、進入するには二折れする外枡形虎口を突破せねばならない。前後左右すべての方向から迎撃を受ける可能性がある。屈曲した土塁と横堀は技巧的で美しく、山城築造史における到達点の一つと高く評価できよう。
これほどに見事な造りながら、一次史料で一切言及されない謎の城でもある。児島が争奪戦の舞台となったのは、天正七年(1579)からの毛利と宇喜多の対立だ。天正十年(1582)の八浜合戦では横堀の見事な両児山城が築かれているので、黒山城も同時期の城郭だろう。
当初児島は毛利の支配下にあった。そこへ宇喜多が東児の高畠氏を調略し、両児山城を築いて八浜に進出した。これに毛利が軍勢を派遣して合戦となり、宇喜多の大将が討死。ところが秀吉の備前進出により毛利は八浜から撤退し、備中高松城の戦いを迎えるのである。
一昨年、児島防衛の要となる常山城を秀吉が攻撃しようとしたことを示す文書が見つかった。秀吉の花押と3月17日の日付がある。4月4日に秀吉は備前岡山に到着する。技巧的で美しい黒山城が築かれた背景には、このような緊張感があったのだ。
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