家に岡山駅の古い時刻表があって、聞いたこともないような特急や急行を見つけて楽しんでいた。行先は上りなら大都会、下りなら有名な地方都市なのだが、月田駅が終点という珍しい急行列車を見つけた。昭和47年10月2日改正の時刻表である。
その急行は岡山駅14番ホームを14時40分に出発する「砂丘2号・ひるぜん号」である。2つの急行列車は津山線の福渡、津山までは連結しているが、砂丘2号は因美線で鳥取へ向かい、ひるぜん号は姫新線の美作落合、久世、中国勝山を経て月田へ向かう。
月田ってどこ?と思ったものの、特に地図を見るわけでなく姫新線に乗ってみるわけでもなく、昭和と平成が終わってしまった。しかし、月田駅の名前だけは、かつて栄えた幻の駅というイメージとともに記憶に残り続けたのである。
月田城という戦国の山城があるのを知ったのは令和になる頃だった。月田といえば、月田駅。あの幻の駅は今もあるのだろうか、とアトランティス大陸の痕跡を探すかのように場所を特定すると、月田城にも近いことが分かった。本日は月田城の最寄駅、月田駅から出発しよう。
真庭市月田にJR「月田(つきだ)駅」がある。さすがの長いプラットホーム。向こう側にもホームがあり、かつての繁栄を物語っているかのようだ。写真は新見方面を向いている。
よく見ると、もう一つのホームがある。このあたりは木材の生産が盛んだから、その関連の施設なのだろうか。写真は津山方面を向いている。
ホームの桜木が満開となった春に、気動車一両が駅を出てゆく。それは夢のように美しい光景だという。急行の終着駅だった栄光の歴史とともに、人々に記憶されるだろう。
さあ、次は月田城だ。尾根伝いにある登城ルートが分からず、主郭下から直登するという無謀さ。戦国の山城をなめてはいけない。
真庭市月田に「月田城跡」がある。石碑には「月田城趾」と美しい篆書体で刻まれている。小祠は妙見宮である。
三方向の尾根に曲輪を配置し、要所に深い堀切をもうけている。特に北東側の尾根の二重堀切は大規模だが、写真では木々ばかりが写り込んで分かりにくい。南西側の尾根にある二重堀切も見所だ。こちらの方が分かりやすいので写真を掲載しておこう。
城主として楢崎弾正忠元兼の名が伝わる。毛利軍団の有力武将で、天正三年(1575)に三浦氏が退去した後の高田城を任された。毛利氏の城という視点で地図を見れば、月田城の存在意義がよく分かる。
高田(今の勝山)から月田、さらに西へと向かう道があり、ついには備後東城へたどり着くことができる。東城往来と呼ばれる道で、毛利勢にとっては美作に向かう重要な進軍ルートであった。
このルートは岡山県道32号新見勝山線であり、前半で話題にした姫新線である。その昔は急行「みまさか」が新見発で大阪に向かっていたという。まさしく毛利氏の天下取りルートを列車は走った。月田駅の長いプラットホームが急行を迎えたように、月田城も毛利輝元の勢力拡大を支えていたのだろう。