勤皇武将,北畠親房を困らせたのが,南朝の分派行動「藤氏一揆」を画策した近衛経忠という公家である。小山氏など藤原流の氏族を結集し東国で一勢力を築こうとしたという。
岡山県苫田郡鏡野町中谷字近衛殿に「関白塚」があり,唐門を入ると「関白左大臣近衛経忠公之墓」がある。墓域は清掃され仏花が手向けられている。
東国に勢力圏を持とうとした経忠の墓が,なぜ岡山県にあるのか分からない。この地では墓域にある腹切岩で切腹して果てたと伝えられるが,正史では南朝の本拠である賀名生で没したこととされる。
『鏡野風土記』によると,昭和八年五月に近衛家関係者が展墓のため来町し,次のように詠んだという。
(中谷の山へのぼりて)いにしえのなきおもかげをおもいいで涙にそでをぬらしぬるかな 八十一媼芝香
早々のお返事ありがとうございます❗
コロナ終息のおりには、ぜひ鬼山城と美作周辺を散策に参ります。これからも何卒宜しくお願い致します。
投稿情報: 上村 桂 | 2021/05/28 00:08
上村先生
熱心なご研究に敬意を表します。本ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
2020年7月3日付の「元祖桃太郎伝説の鬼山」に鬼山城の玉置玄蕃守を書きましたが、この武将は『美作国の山城』と記事の出典としている『三保村誌』にしか出てきません。他の古文献にも登場せず、『三保村誌』が何を根拠として書いているのか分かりませんでした。
また、『岡山県歴史人物事典』で調べてみたのですが、玉置姓は2人のみで戦国武将ではありませんでした。津山藩の町政を担当する大年寄役の玉置家です。森家の入封に伴って美濃から移住したそうです。
この程度の情報しか持ち合わせておらず、ご期待に沿えないことを申し訳なく思います。
先生の今後のご研究が実り多きものになることをお祈りしております。
投稿情報: 玉山 | 2021/05/23 13:24
初めまして。
和歌山県立熊野高校教諭の上村と申します。奈良十津川の玉置神社と、太平記にある玉置庄司について研究しています。実家の土蔵から紀州玉置氏(手取城と増賀山城)の系譜(建武のころの初代から現在まで)が見つかり、「延元(1336)の頃に近衛右大臣家基の後裔に左衛門尉直光という人物が、訳あって熊野に逃れて玉置氏を頼り、この直光が盛高の妻の縁者の故をもって、玉置氏の養子となってその後継となる。姓を藤原と改め、近衛小太郎直高と称す。」その後に『近衛様の御番を勤申以来迄無油断御奉公を申上候物也』という記述もあります。
五輪塔もあるのですが、なぜか禁闕の変(1444)あたりの5・6・7・8代目のお墓が見つかりません。8代目の名前が『玉置玄蕃守』とあります。鬼山城の城主であったと知り、コメントさせていただきました。禁闕の変で畠山持豊に誅された「玉置徳増」は山地玉置氏(和歌山県田辺市龍神村東)方の人物で、応仁のころ山名氏について美作に行った可能性があります。岡山県の玉置氏について詳しく教えていただきたいと思い大変失礼ながらコメントを入れさせていただきました。何卒お返事をお待ちしております。
投稿情報: 上村桂 | 2021/05/22 20:35