母が子に毒を盛る。時として常識では考えられないことが起こる。現代の虐待事件ではない。昨今の戦国ブームで歴女から「マサムネサマ」と高支持を誇る伊達政宗の話である。
仙台市青葉区北山1丁目の覚範寺の本堂裏に「保春院の墓」がある。写真では右の小さい墓がそれである。
保春院は義姫といい,政宗の生母である。話はこうだ。政宗の弟,小次郎を偏愛した保春院は,天正18年(1590)政宗を毒殺し小次郎を擁立しようとしたが,失敗に終わる。政宗は自ら小次郎を成敗し,保春院は山形の実家に去ってしまう。
物語としては興味深いが,次のような指摘がある。河北新報社の『仙台藩ものがたり』から引用しよう。
仙台市博物館の佐藤憲一館長は,義姫は事件直後に出奔したのではなく,1594年11月まで政宗の居城である岩出山にいたことを示す資料を確認,毒殺未遂事件首謀者説を疑問視している。
半島滞在時期の手紙は,政宗,義姫ともに母子の情愛あふれる書き方をしている。
半島滞在時期とは朝鮮出兵のことである。母から贈られた金子三両を政宗は「千両,万両に優れる」と感激している。果たして確執はあったのか無かったのか。確執は情愛と表裏一体をなす。火のないところに煙は立たぬから,なんらかの確執があったに違いないが,おそらく情愛あればこその確執だったのではなかろうか。
なお,左の大きな墓は政宗の三男,「伊達宗清供養塔」である。おばあちゃんと孫が並んでいることになる。現代の家族関係から見ると,ほほえましく思えることだ。
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