衰微した寺院を復興させるのは並大抵のことではない。藩政期なら大名の豊富な資金力による公的な支援があった。しかし,明治期の国家神道,戦後の政教分離によって,寺院は独り立ちを余儀なくされてきた。広大な伽藍を失った名刹も少なくない。
仙台市青葉区北山一丁目に「曹洞宗金剛宝山輪王寺」がある。
嘉吉元年に伊達氏十一代持宗が福島県梁川に創建した寺院である。その後,伊達氏の躍進とともに「輪王寺の六遷」と呼ばれる遷座を繰り返し発展してきた。しかし,廃藩により伊達氏の外護を失ったうえに,明治九年には野火によって類焼し,仁王門のみを残して伽藍のすべてが灰燼に帰したという。
その後,住職の努力,本山の支援によって今日の姿に復興した。当寺のパンフレットには,住職は「寝食を忘れて」復興に努めた,と表現されている。シンボルの三重塔は昭和五十六年の建立である。四季折々の美しさをカメラに収めようと訪れる人が多い。
この寺の墓地には「藩祖政宗公正室愛姫御母堂墓所」がある。政宗の義母に当たる方だ。愛姫の母は,相馬顕胤の女で三春城主田村清顕に嫁し愛姫をもうけた。愛姫は一人娘だったようだ。後に田村氏は秀吉の奥州仕置で改易となるが,伊達氏との縁で近世大名として存続する。特に元禄の世に浅野内匠頭を邸内で切腹させた田村右京大夫は愛姫の曾孫に当たる。
また,その隣に「藩祖政宗公三男竹松丸及び殉死者墓所」がある。竹松丸は政宗と愛姫の三男として生を受けたが,元和元(1615)年3月18日に七歳で夭折した。同月28日に家臣が二人殉死している。殉死の禁止はもう50年ほど後のことであった。
庭と墓地を巡っただけで,栄枯盛衰が目の前で繰り広げられた思いがした。由緒ある寺を復興させた御住職に感謝するのみである。
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