といっても仁徳陵ではない。墳丘を歩ける古墳としては日本最大である造山(つくりやま)古墳である。天皇陵も含めると全国4位の大きさだ。築造時は日本一だった可能性もある。いったい被葬者は誰なのか。
「造山古墳」は岡山市北区新庄下にある。近くに同訓の「作山古墳」があるので,あえて「ぞうざんこふん」と呼ぶ場合もある。
当然ながら古代吉備王国の大王の墓だろう。そこで地元の造形作家,西平孝史氏が「吉備の大王」を制作した。上の写真で大王像の背景が古墳の後円部に当たる。
前方部の荒神社に石棺がある。これは阿蘇の凝灰岩でできている。吉備王国の交流の広さを示している。ただ,後円部から移動させたという説もあれば,新庄上車塚古墳から持ってきたという説がある。江戸時代にはすでにここに在ったそうだ。
後円部には土塁が築かれている。戦国時代の高松城水攻めの際に毛利方が築城したものという。山陽道を押さえるのによい場所だ。
近くに小さな円墳や方墳などが合わせて6基ある。陪塚(ばいちょう)と呼ばれ,被葬者の一族か有力な従者の墓だといわれている。写真は方墳の造山第2号墳である。第5号墳が石材や装飾など九州との関連が指摘されている有名な千足古墳である。
辺りには長閑な風景が広がる。自転車道が整備されており,散策に適している。大和との競合,九州との交流…,吉備とはどのような存在だったのか。古代ロマン? 空気をいっぱいに吸って,陳腐だと思っていた言葉にうなずくのであった。
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