旅する御隠居かと思えば天下の副将軍,旅の僧かと思えば前の執権であった。馴れ馴れしくため口をきいていた者にとって,正体を知った時の驚きは如何ばかりか。まさに驚天動地。命にかかわることだ。そこが視聴者の最大の楽しみである。
三木市の恵比須駅(神戸電鉄粟生線)に「菅原宗賢の事績」を記した石碑が建てられている。
駅前広場にはかつて「宗賢池」という溜池があったということだ。菅原宗賢はこの地の医師で,荒地の開墾や溜池の築造に力を注いだ人物である。碑文を読んでみよう。
宗賢は晩年,諸国行脚の旅に出ました。ある年の暮れ,高砂の石の宝殿で一人の旅僧と出合い,意気投合して二人で旅をし,その途中,宗賢の家に寄り正月を共に過ごしました。
再び旅に出た二人は 鎌倉の手前で御輿を担いで出迎えに来たりっぱな一行に出合います。宗賢はその旅僧が前の執権北條時頼であることを知り今までの無礼を詫びましたが,逆に時頼に謝意を述べられ鎌倉へ迎えられました。
宗賢が帰郷の際,時頼は土産として三木の地を永代無年貢地とする書状を与えました。
永代無年貢地の由来を時頼廻国伝説に結び付けて説明している。まさか,伝説通りに鎌倉中期まで遡る話ではあるまい。廻国伝説は『太平記』『増鏡』に記載され,謡曲『鉢の木』で人口に膾炙するようになった。とするとこの地を開発した菅原宗賢の伝説の形成期は,謡曲が親しまれかつ新田開発が進んだ江戸前期か。
当然,新田は課税の対象として当局から目を付けられる。しかし,この地は永代無年貢地。この特権の価値を一層高め,経済的負担を軽くしたいという思いが伝説を育てたのではないだろうか。
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