「崩れ」という歴史用語がある。禁教時代でのキリシタンの摘発のほかに,戦国の世で総崩れとなって大敗を喫してしまう場合に用いられる。今日は,16世紀前期に管領を務めた細川高国,そしてその対抗勢力「堺幕府」,両者の争いに関する史跡を訪ねよう。
尼崎市東大物町一丁目に「大物くつれ戦跡」(大物くずれの戦跡碑)がある。昭和の御大典を記念して昭和3年に建てられたものだ。
16世紀初め,すでに幕府内部は将軍家,管領家,有力武将入り乱れての争乱状態であった。永正五年(1508年)に管領に就いた高国の最大のライバルは,澄元とその子・晴元である。晴元は堺公方・足利義維(よしつな)を擁して,将軍・義晴を戴く高国に挑んできた。戦いは一進一退,そして…
享禄四年(1531年),高国は浦上村宗,晴元は三好元長を押し立てて,決戦の気運が高まる。高国方は赤松政祐を後詰めとして,長年の対立問題に勝利という答えを導き出そうとしていた。ところが…
6月4日,赤松は晴元方に内応して,高国方を背後から攻撃する。これによって一挙に膠着状態が崩れて,村宗は討死,高国は敗走する。続きを『備前軍記』から引用しよう。
その隙に,常桓(高国のこと)は僅かに身をもって逃れたが,尼崎の町屋の京屋という者の宅に隠れていたところを三好山城守が聞き出し,捜し捉えて堺の晴政(赤松政祐のこと)に注進した。そして同月八日,大物浦の広徳寺で切腹し,常桓は波瀾に満ちた生涯を終えた。
この出来事に関して,尼崎市発行の『図説尼崎の歴史』は次のように指摘している。
高国が最後に大物・尼崎の町に逃げ込んだのは,そこが自治都市で,世俗権力が及ばない治外法権の場(アジール)としての性格を持っていたからだと思われます。
有名な合戦の多くは,後代に命名されるのが普通です。「大物くずれ」は,よほど同時代の人々に印象深い大合戦だったのでしょう。
こうして,高国を倒した「堺幕府」は名実ともに幕府としての体裁を整え…となるのが筋というものだが,史実はそうならない。勝利した晴元自身が堺公方・義維を捨て,将軍・義晴に取り入り管領となってしまう。見捨てられた義維は阿波に逃れ平島公方と呼ばれる。大物崩れの戦跡は,一時期デ・ファクトな政権だった堺幕府が,征夷大将軍の座に最も近付いた瞬間を示す史跡であった。
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