熊本の武将といえば,加藤清正の人気が抜群だ。生誕450年・没後400年が近いということで,「清正くん」という,まんまの名前が付けられたゆるキャラが活躍している。それに比べてと言ったら気の毒だが,清正公の前領主である佐々成政は…。
尼崎市寺町の法園寺に「佐々成政墓一石五輪塔」がある。山門を入って左側の写真の墓碑は複製で実物は本堂内にあるそうだ。「前奥州太守庭月道閑居士」と陸奥守に任官された成政の法名が刻まれている。
市教委作成の案内板には次のように解説されている。
肥後守在任中、領地内で反乱がおこり、その責により幽閉され、天正16年(1588)閏5月14日に切腹を命じられます。恨みの秀吉のいる大坂城の方向に自らの臓腑を投げつけたと伝えられています。
『尼崎地域史事典』によると,墓碑は同寺内墓地の無縁塔の累積していた中から昭和2年に発見されたという。肥後一国を与えられ一年もたたないうちに国衆の反抗によりお手上げ状態になった成政。その晩年といい墓碑の扱われ方といい,熊本でも尼崎でもまったく立つ瀬がない。
しかし,来月25日には「観光おおやま佐々成政戦国時代祭り」が開催される。「佐々堤(さっさてい)」という治水事業も評価が高い。どちらも富山市でのこと。越中富山には,成政が5年間在国していた。
佐々堤がある常願寺川は,明治時代にオランダ人デ・レーケが「これは川ではない,滝だ」と叫んだという急流である。佐々成政はその治水に成功した。水を治めるものは国を治める。国を治めた成政は今も富山の人々に慕われている。
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