「南の方角から小型機が2機現れ銃撃してきました。偶然一緒に走っていた2人の男性が塀の側へと伏せたところへ,機銃弾が直撃し,1人は腹を撃たれ,もう1人は鉄かぶとをがぶっていた頭部に被弾しました。おそらく2人とも助からなかったと思います」米軍の機銃掃射を体験した方の貴重な証言である。(『図説尼崎の歴史下巻』からの孫引き,原資料は,尼崎市立地域研究史料館紀要『地域史研究』35-1井上眞理子「旧開明小学校の塀に残る『機銃掃射』の跡」)
尼崎市開明町二丁目の旧開明小学校に「機銃掃射による弾痕が残る塀」がある。
尼崎は8回の大規模な空襲を受け,記録されているだけでも479人の死者を出している。焼夷弾,高性能爆弾,機銃掃射と様々な攻撃が加えられた。このうち,昭和20年6月1日には,B29の援護部隊としてP51戦闘機が飛来しているので,この塀の弾痕はその折のものと考えられている。
調べる過程で驚くべき事実に出会った。尼崎は原爆投下の候補地に挙がっていたという。ニュースソースは『大阪春秋』第58号の辻川敦「尼崎の戦災」である。
この事実を紹介したオーテス・ケーリ氏の論文「秘録原子爆弾日本投下計画」(『中央公論』昭和五十四年九月号)によれば,昭和二十年四月から原爆投下地を検討していたマンハッタン計画(原爆開発プロジェクト)の目標地委員会は,六月十三日付機密報告書で小倉(八月九日の当初目標は小倉であり,投下が失敗に終わったため長崎に変更された)・広島・新潟の三都市を選定した。選定の基準は,軍事的に重要で,なおかつ未だ破壊されていない都市ということであった。
その後,ワシントン発マリアナ諸島第二〇空軍司令部宛の七月三十一日付電文下書きに,追加目標として大阪,尼崎,大牟田の三都市が挙げられており,ケーリ氏は「ワシントンで補欠の候補地として考慮されたことはあったらしい」と分析している。
機銃掃射であれ原子爆弾であれ,無差別な人殺しには変わりない。命が軽んじられることを目の前の出来事として実感できるこの遺跡を大切に保存したいものである。
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