私が中学生のころ,歴史ではじめて古墳の話を聞いた。当時松永から通学していたので,いつも赤坂駅にとまるたびに,この丘をながめて,もしや古墳ではあるまいかと思って,途中下車して丘にのぼったのである。
すると付近で耕作していた人から,この山は足利将軍最後の義昭の墓であると教えてもらった。山の斜面に赤い土器の破片と鉄のさびついた丸い玉がみられたので採集して,先生に見てもらうと,土器は埴輪円筒の破片で,鉄の玉は鉄砲の玉ではないかと,いわれたけれども,どうしてここに玉があるのかわからなかったのである。
村上正名『福山散策』「いこうか山古墳」から引用
福山市赤坂町大字赤坂に「イコーカ山古墳」がある。丘の上にあって眺めが良い。古い写真によると,かつては頂上に大きな松があったようだ。
詳しい解説は現地案内板に任せることにしよう。
福山市史跡 イコーカ山古墳 福山市赤坂町一番組 昭和38年4月5日指定
津之郷町加屋から南に派生する丘陵の先端部に造られた古墳です。墳丘は径約10mの円墳で,外部施設として円筒埴輪を二重にめぐらせていますが,現在は埋め戻しています。内部主体は未発掘のため明らかにはなっていません。
周囲はかなり削り取られているので,旧来の景観は変容していますが,南西に続く丘陵には,4基で構成される池下山古墳群が存在していました。
西側には相輪を欠いていますが,室町期と考えられる宝篋印塔があります。
福山市教育委員会
「イコーカ」という面白そうな名前の由来は,独立した小高い丘なので「一個丘」だとか,松永から福山の色街に遊びに行く男が「いこうか,もどろうか」と思案した場所だからともいうそうだ。『福山市史』には「イクオカ山古墳」との表記もある。
西側の宝篋印塔も興味深い。これも現地案内板に語ってもらおう。
宝篋印塔(イコーカ山)
これは室町幕府最後の将軍足利義昭の供養塔と伝えられている。しかし、義昭は毛利氏を頼って備後に来り、津之郷に隠棲中、天正十五年(1587)三月、西下した豊臣秀吉に赤坂のこの地で対面し、五月に上洛している。なお、18世紀半ば、毛利藩の有馬喜惣太記述の「中国行程記」では、池奉行の墓と記されている。現在、相輪は欠けているが、室町時代のものと思われる。
赤坂学区ふれあい事業 赤坂学区文化連盟
『中国行程記』によると,かつてこの近くに大きな池があって,その池を埋めて開墾しようとしたが,あまりに深くてかなわなかった。そこで責任者の池奉行はこの山で切腹をした,ということだ。
円筒埴輪をもつ古墳,室町期の宝篋印塔,鉄砲玉の出土,自決した池奉行,よく分からない地名の由来,そして将軍義昭の墓または供養塔…。年代だけでなく史実と伝説とが混在した複雑な性格の史跡だ。イコーカ山は,この地域のランドマークとして意識されていただけに,この史跡に対する期待も大きい。近くに棲んでいた貴人,足利義昭との結びついたのも当然のなりゆきだったのかもしれない。