別荘を持つことは一つのステータスであり庶民の夢である。昔だってそうだったろう。下級貴族であっても,チャンスさえあれば上昇気流に乗って,地位や名誉に財産を手に入れたいと考えていたに違いない。
尼崎市杭瀬寺島2丁目に「寺江亭阯傳説地」の標柱があり,その隣に「聖趾不滅」と坂千秋(第27代兵庫県知事)が揮毫した石碑が建てられている。
寺江亭とは藤原邦綱の別荘である。その邦綱は藤原北家の流れを汲む下級貴族だったが,おそらくは努力と才能と運によって平氏政権のもとで活躍し,正二位・権大納言にまで昇りつめる。
財を蓄え別荘を持った邦綱,彼の寺江亭に高倉上皇がお立ち寄りになった。治承4年3月19日のことである。人生の栄誉ここに極まる,そんな場面だろう。『高倉院厳島御幸記』を読んでみよう。
かくて、御船出(いだ)して、東風(こち)かぜをおいて、下らせ給ひ、申(さる)の時に川尻の寺江(てらゑ)といふ所に着かせたまふ。邦綱の大納言御所造りて、御設(まう)け心を尽して、御船ながらにさし入れて、釣殿(つりどの)より下りさせ給ふ。御障子(しやうじ)どもも、唐(から)の山との絵ども描(か)きちらしたり。厩(むまや)に葦毛の馬(むま)ども二疋立てて、めづらしき鞍ども懸けたり。御よそひの物ども数知らず。上達部殿上人の居所ども、みなその用意あり。福原(ふくわら)より、「けふよき日とて、船に召しそむべし」とて、唐の船まゐらせたり。 まことにおどろ/\しく、絵に描きたるに違(たが)はず。唐人(たうじん)ぞ付きてまゐりたる。「高麗人(こまうど)にはあだには見えさせ給まじ」とかや、なにがしの御時に沙汰ありけんに、むげに近く候はんまでぞ、かはゆく覚ゆる。御船に召しそめて、江(え)の内(うち)をさしめぐりて、上(のぼ)らせ給ひぬ。
この豪奢な建物には,船で乗り入れることができ,中国船をも近付けられる。国際的でハイソな別荘・寺江亭の様子を思い浮かべ,次に,現在の工場群と堤防のある風景に目をやると,当然ながら隔世の感を禁じえない。「聖趾不滅」の碑文には,次のように記されている。
寺江亭ノ故阯實ニ附近ナリト傳ヘラル。神崎川ノ水、溶溶トシテ流ルル所、上畿ノ文化夙ニ水驛ニ洽ク。地方繁榮ノ端緒早ク茲ニ發ス。物變リ星移リテ河畔ノ風趣舊ノ如クナラスト雖モ、此ノ岸頭ニ莅ム時、人ヲシテ懐古ノ情ニ堪ヘサラシムルモノアリ。
この石碑は皇紀二千六百年の奉祝として建てられた。藤原邦綱がこの地に別荘を設けたことが,「地方繁榮ノ端緒」となったと評価されている。邦綱の同時代人の上級貴族,九条兼実はどうだろう。邦綱の死に際して,次のように記している。(『玉葉』治承5年閏2月23日条)
邦綱卿は卑賤より出ずと雖も其の心広大なり。天下の諸人貴賎を論ぜず、其の経営を以て偏に身の大事となす。ここに因りて衆人惜しまざるはなし。
当代,後世ともに評価された邦綱。下級貴族の面目躍如といったところだろう。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。