幕末の歴史には,公武合体派(保守=現実派)VS尊王攘夷派(革新=理想派)という局面があった。具体的には,会津藩・薩摩藩VS長州藩との構図で起きた八月十八日の政変(文久三年=1863)と1年後の禁門の変である。この時は公武合体派の勝利,つまり長州藩の敗北である。やがて来る維新の主導権をにぎる長州の苦節の時であった。
尼崎市杭瀬南新町四丁目の杭瀬東墓地内に「残念さんの墓」がある。
この墓の主は長州藩士・山本文之助鑑光(かねみつ)である。元治元年7月19日,禁門の変はその日のうちに勝敗の帰趨が決まり,長州藩兵は西へ西へと敗走していた。山本文之助もその一人だったが,20日運悪く尼崎城下への北東の入口である大物北ノ口御門で捕えられ,会所に留置されてしまった。
ところが文之助は黙秘を続け,ついには会所の中で自殺を遂げる。気の毒ながら,これだけのことなら,よくある話であったろう。文之助が「残念さん」へと昇華するには,次のようなエピソードが必要だった。尼崎市教育委員会による現地案内板を読んでみよう。
大阪本町の呉服屋扇屋真助が手代に書かせた日誌によると,文之助の書置きには「残念で口惜しい,もし口惜しいことがあれば自分に参れば一つだけ願いをかなえてやろう」と書かれていたとあります。噂を伝え聞いたおびただしい人びとが,大阪から文之助の墓へ参詣しました。これ以後,願い参りが大流行し,大坂町奉行所は一切これを禁止しようとしました。この禁圧のなかで彼の墓は人びとから「残念さん」と呼ばれるようになり,世人の長州藩に対する同情も高まっていきました。
理想派の敗北,世直しへの期待,敗者への同情…政治的事件と民衆の思いが交錯して,歴史を動かす大きなエネルギーを生み出す。5年後にやってくる明治維新はこうして準備されていった。「残念さん」信仰の大ブームは,お上に物申せない民衆の政治的主張だったのだ。
明治維新の胎動期を示すこの史跡は,今でも受験生などの願いを叶えてくれる信仰の対象である。貴重な史跡だ,写真を撮ろう,と電源を入れたら電池切れだった。よって今回は史跡の写真が掲載できない。少々残念なことである。
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