足利義昭という人物は,教科書にも出てくる著名人でありながら,信長に追放されてからの後半生はパッとしない。浮き沈みが激しいのが人の世の常であり,戦国の余波醒め遣らぬこの時期にあっては尚更だったかもしれぬ。しかし,一旦は天下の将軍を務めた人物,キャスティングボートを握る可能性さえあったキーパーソンだ。政界復帰を睨みつつ地方に流寓していた将軍の動向を,今に残る伝説地から窺うこととしよう。
福山市津之郷町大字津之郷に「惣堂(そうどう)神社」が鎮座する。
小高い丘にあるこの神社には,足利義昭が祀られているという。典拠は江戸中期編纂の『備陽六郡志』である。「外篇」分郡之ニの津之郷村の項から引用しよう。
三嶋(サウドウ)大明神 下三嶋(サウトウ)と云山に有,将軍義昭を祀れり。神躰は則義昭(黒將束,立烏帽子)并御臺所の像なり。元文の比迄,上三嶋とて,西の方の山上に御臺所の社有けるが,祭も同日なる故,一社に勧請しけるなり。
同書「後得録」の深津郡の項には,次のように記述されている。
分郡津之郷村の義昭の御所の跡并馬場と云所有。秀吉公朝鮮征伐のため九州御下向の節,田邊寺へ御出有,御對面有しと。津之郷村の産神は義昭公の像を御正躰とし,三嶋大明神と崇祭る。是則此村にて薨じ給ひける所に極れりといへり。所々に三嶋大明神といへる有,何茂義昭公を祭りたるなり。
惣堂神社の東側に「御殿畑」と呼ばれる見晴らしの良い平地がある。ここに義昭の御所があったのだろう。
天正元年(1573)に京都を追われた将軍義昭は,紀州などで様子をうかがっていたが,毛利・織田の対立が決定的となったと見るや備後の鞆にやってきた。時に天正四年(1576)である。天正十年(1582)には本能寺の変によって信長が斃れるものの,秀吉との対立も続く。この年に義昭は鞆から津之郷に移り,天正十六年(1588)に帰洛するまで5年以上にわたってここに留まった。
天正十五年(1587)3月12日には,義昭の御所から近い田辺寺で秀吉と対面している。先の引用文中の朝鮮征伐は年代の誤りで,秀吉が九州征伐に向かう途中のことである。島津氏を降してからの帰途,7月17日には細川幽斎が義昭の御所を訪れている。
義昭は京都を追われてからも帰洛するまでは,征夷大将軍の地位にあった。天正十五年,津之郷には将軍が居て,天下人,文化人が訪れた。これほどの地であっても史跡として顕彰するものは何もない。記念碑や案内板を立てるばかりが,史跡への理解を深めるのではない。時を経ると何も残らない,これが自然な姿なのだろう。
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