時代を越えて慕われ続け墓に香煙が絶えることがないのは,坂本龍馬くらいなものだ。ファンのメッセージまで並ぶ観光的な墓となっていることは、彼の評価を見事に顕現したものだ。
しかし,崩れて苔むした石塔であっても,充分に歴史の教訓というか人生の教えになるように感じる。荒れ果てた墓ほど世の無常を感じさせるものはない。いくら権勢を誇ろうが,時代が替われば過去の人だ。
福山市熊野町甲の常国寺の裏山に「足利義昭公供養塔(別名 将軍塚)」がある。常国寺は名刹で今も大きな伽藍が維持されている。本堂裏のやや荒れた道をしばらく登ると供養塔に着く。常国寺の隣には一乗山城跡がある。
足利将軍とこの地には,どのような関係があるのか。そのあたりの事情を『福山市熊野町誌』(1984年)から引用しよう。
室町幕府最後の十五代将軍足利義昭は,天正元年(1573)信長に京都を追われ,山城・河内・和泉・紀伊の各地を転々とし,天正四年西国の雄毛利輝元を頼って鞆へ来た。輝元は山田一乗山の城主渡部高に将軍の警固を命じた。毛利が秀吉と和を結ぶと,鞆にも居難くなり居を移すことにした。そこで時の一乗山城主渡辺元は,将軍を自分の城に請じて暫く(三ヶ年という説がある)守護をした。
(中略)その後,義昭は福山の津之郷へ移り,天正十六年(1588)更に泉州堺に移って慶長二年(1597)死去した。享年六一才霊陽院と号す。遺言により義昭の分骨と遺品を,尼子新左衛門を使者として山田の渡辺景(元の子)へ送った。景は分骨を葬り将軍塚としたと伝える。
福山市の重要文化財に指定されている常国寺の唐門は正面桟唐戸に桐の文様の美しいレリーフがあり,足利将軍家との関連を予想させる。山里の古刹。緑に映える伽藍。主張する姿勢は控えめだが,唐門の浮彫はこの寺院の格式の高さを示している。
それに比べて将軍塚のほうはずいぶんと荒れた印象だが,次のような事情があったのだと言う。同じく『福山市熊野町誌』から引用しよう。
戦前は,高さ30cm1m角の土台の上に宝篋印塔が立っていたが,戦時中に子供らが足利は国賊だと云って塔を谷へ落した。現在は高さ52cmの相輪のみが只一本48cm角の石の上に立っているだけである。
流浪の将軍は,最後は塚まで崩されたという。今は国賊などと誰も思っていないが,信長に追われたふがいない将軍という印象がある。しかし,毛利を頼り秀吉に取り入って激動の世をくぐり抜けたしたたかさは,彼がただ者ではなかったことを示している。