かえすがえすも惜しいと思うのが、戦災と廃城令と一国一城令である。この三要因によって、どんどん城は取り壊されていった。残っておれば文化財としても観光スポットとしても高く評価されただろう。こんな無責任な感想を言っても仕方がない。それぞれの要因を避けえない事情があったのだ。明治の世となり城は無用の長物、城主は東京へ行っていなくなり、傷んだ櫓や壁を補修しようにもお金がない。そんな中で今に伝わる城の遺構は貴重なものだ。
兵庫県揖保郡太子町常全の真宗大谷派蓮光寺の山門は「龍野城錣坂(しころざか)門」の遺構である。
まず、山門前の由来書を読んでみよう。
この山門は播州龍野藩五万三千石・脇坂家の城門の一つ、錣坂門である。元和三年(一六一七〉から寛永三年〈一六二六〉の間に建造され明治初期に移築された。今も簡素、重厚、風雪に耐えた藩門の佇まいを窺わせる。
旧いものに新しい命が与えられ今でも活かされている。仏の教えにかなう道である。移築はいつのことか。龍野市史第二巻に次のような記述があった。
一八七六年〈明治九)八月一四日付の飾磨県布達乙第三〇〇号をもって、龍野城・赤穂城その他の廃城や陣屋の付属建物ならびに付属地を入札払下げすることが布達されている。この布達によって龍野城内に次のような建造物があったことがわかる。
城内…官舎(御殿、建坪三七〇坪七合六尺、畳一五一枚、障子一三六本) 埋門 路次門 路次門 路次門 冠木門と番所 武庫 太鼓櫓
郭内…錣坂門と番所 大手門と番所 魚町門〈大手裏門〉と番所 東門 新馬場門 西木戸門 作事小屋
郭外…火薬蔵 船税物置 門と番所 長屋 釜屋 入口門 ほか
もっとも「錣坂門」の錣(しころ)は、市史では革に周という標記である。城門はこの時期に払い下げられ山門に転生した。現在の龍野城の建造物はすべて復元新築だそうだ。同市史では、他にも3か所に遺構があることが紹介されている。すなわち、龍野市揖保町中臣の光遍寺の山門、揖保川町正条の浄栄寺の山門と東門、揖保川町野田の因念寺の山門である。脇坂藩五万三千石の威光を偲ぶよすがとしたいものだ。
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