戦国大名がどのように評価されているかを測る指標にイベントの有無がある。播磨の名族・赤松氏には「白旗城まつり」がある。岡山の雄・宇喜多氏には「宇喜多秀家☆フェス」がある。宇喜多氏は下剋上の典型で、守護大名の赤松氏の実権を守護代の浦上氏が奪い、その浦上氏を配下の有力国人の宇喜多氏が倒している。気になるのは覇権を手に入れることのできなかった浦上氏である。
岡山県和気郡和気町田土の天神山城本丸跡に「浦上遠江守宗景之城址」と刻まれた石碑がある。昭和9年4月に宗景の後裔に当たる浦上宗次氏が、地元の天神山保勝会の後援により建立したもので、揮毫は岡山出身の著名な陸軍大将・宇垣一成である。
天神山城は吉井川から見ると壁のようにはだかる急峻だが、山頂部で城郭が尾根筋に長く形成されており、思う以上に大規模である。登るのに苦労はあるが、途中ではこのような眺望を手に入れることができる。
浦上宗景は永禄10年(1567)兄筋の惣領家を滅ぼし、播磨西部、備前一円、美作東南部に勢力を広げていた。さらに元亀元年(1570)には、織田信長に謁見し播備作の支配権を認められている。
おそらくこの時が浦上氏の絶頂期であっただろう。信長に反抗して滅ぼされた者は多いが、逆にお墨付きを得たのだから、条件が好ければ秀吉、家康と世を渡り近世大名となっていたかもしれない。『浦上宗景と天神山城』と地元作成の小冊子では、宗景の人物像について次のように述べている。
僅か十数年の間に備前・作州の土豪国士を統合して戦国大名に成りあがり、上洛して信長に再度出仕するまでに成っているからには、やはり傑物であったに違いない。
いくら傑物であっても世渡りが簡単でないのはこの時代の様相だが、宗景の場合は足下から崩壊したのだった。配下にあった宇喜多直家は毛利氏と結んで宗景に反抗し、天正5年(1577)に天神山城を奪い取ってしまう。
その後、復権をかけて様々な工作を行うが功を奏さず、最後は筑前福岡の黒田氏を頼ったようだ。石碑の建立者が九州筥崎なのも、そういうことなのだろう。
そびえるように立つ天神山城。その姿は元亀元年に播備作に覇を唱えた浦上宗景の姿そのものであった。
※年代は上記引用文献に従ったが異説がある。
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