老将といえばラファイエットを思い出す。アメリカ独立戦争、フランス革命で活躍し、1830年の7月革命でも指導者として登場する。私が手にしていた本では、7月革命時には「老ラファイエット」であった。そんな表現があるのか、と白髪をふりみだして奔走するおじいさんの姿を想像したものだ。今日は日本を代表する老将の話である。
宇治市宇治の平等院内の最勝院に「源三位頼政の墓」がある。
1180年、以仁王の令旨を奉じて源頼政は挙兵した。平家は即座に反応したため寡勢の頼政軍は南走、宇治川をはさんで平家と対峙する。その際、宇治橋の橋板を外して渡河できないようにした。しかし平家の勇者はあきらめない。馬筏をつくって渡ってきた。その模様は『平家物語』「橋合戦」に描かれる。
その次の段が「宮御最期」。頼政と以仁王の敗死を描く。ここでは頼政の死の部分を引用しよう。(引用元は岩波文庫版『平家物語』巻第四)
おほぜいみなわたして、平等院の門のうちへ、いれかへいれかへたゝかひけり。このまぎれに、宮をば南都へさきだてまゐらせ、源三位入道の一類残ッて、ふせき矢射給ふ。
三位入道七十にあまッて、いくさして弓手のひざ口を射させ、いたでなれば心しづかに自害せんとて、平等院の門の内へひき退て、かたきおそひかゝりければ、次男源大夫判官兼綱、紺地の錦の直垂に唐綾威の鎧着て、白葦毛なる馬に乗り、父をのばさんとかへしあはせあはせ、ふせきたゝかふ。上総太郎判官が射ける矢に、兼綱うち甲を射させてひるむところに、上総守が童次郎丸といふしたゝか物、おしならべてひッくンでどうど落つ。源大夫判官は、うち甲もいた手なれども、聞ゆる大ぢからなりければ、童をとッておさへて頸をかき、立ちあがらんとするところに、平家の兵物ども十四五騎、ひしひしと落ち重なッて、つひに兼綱をばうッてンげり。
伊豆守仲綱も、いた手あまた負ひ、平等院の釣殿にて自害す。その頸をば、下河辺の藤三郎清親とッて、大床のしたへぞなげ入ける。
六条蔵人仲家、其子蔵人太郎仲光も、さんざんに戦ひ、分どりあまたして、遂に打死にしてンげり。この仲家と申は、故帯刀の先生義方が嫡子也。みなし子にてありしを、三位入道養子にして不便にし給ひしが、日来の契を変ぜず、一所にて死にけるこそむざんなれ。
三位入道は、渡辺長七唱を召して、「我が頸討て」とのたまひければ、主のいけ頸討たん事のかなしさに、涙をはらはらと流いて、「仕ともおぼえ候はず。御自害候て、其後こそ給はり候はめ」と申ければ、「まことにも」とて西に向ひ、高声に十念唱へ、最後の詞ぞあはれなる。
埋もれ木の花さくこともなかりしに身のなる果てぞ悲しかりける
これを最後の詞にて、太刀のさきを腹につき立て、うつぶッさまにつらぬかッてぞ失せられける。其時に歌よむべうはなかりしかども、わかうよりあながちにすいたる道なれば、最後の時も忘れ給はず。その頸をば唱取ッて、なくなく石にくゝりあはせ、かたきの中をまぎれいでて、宇治河のふかきところに沈めてンげり。
七十半ばの老将の最期であった。命日の5月26日には法要「頼政忌」が行われているそうだ。平等院内にはもう一つ頼政ゆかりの史跡がある。
表門から入って左手のほうに「扇之芝」がある。
なぜ芝が扇形になっているのか。『平家物語』には「扇」が登場しない。そこで世阿弥作の謡曲『頼政』を読んでみよう。シテは里の老人で、ワキは旅の僧である。(引用元は岩波書店日本古典文学大系40『謡曲集』上)
シテ「こなたへおん入り候へ。これこそ平等院の釣り殿と申す所にて候へ、おん心静かにご覧候へ」
ワキ「あら面白や候、またこれに扇のごとく芝を取り残されて候、これはなにと申したるおんことにて候ふぞ」
シテ「げによくご不審候ふものかな、いにしへこの所に宮戦のありし時、源三位頼政合戦にうち負け、この所にて扇を敷き自害し給ひし名将の果て給ひたる跡なればとて、今に扇の芝と申し候」
ワキ「痛はしやさしも文武に名を得し人なれども、跡は草露の道のべとなつて、行人征馬の行くへのごとし、あら痛はしや候」
扇の芝は境内の隅にあって、それほど多くの人が見学していない。案内をしてくれた里の老人は、実は頼政の霊の化身である。彼の霊魂は充分に鎮められているのであろうか。
有名な以仁王の挙兵は、頼政がそそのかしたものだと『平家物語』は語る。(巻第四「源氏揃」)
源三位入道頼政、或夜ひそかに此宮の御所にまゐッて申けることこそおそろしけれ。
「…。御謀反おこさせ給ひて、平家をほろぼし、法皇のいつとなく鳥羽殿におしこめられてわたらせ給ふ御心をもやすめまゐらせ、君も位に即かせ給ふべし。…」
しかし、頼政は策謀をめぐらしただけの黒幕ではない。寡勢ながらも王を守って戦い、そして散った武者であったことは先に見たとおりだ。最勝院境内の頼政墓の説明板は次のように解説する。
源三位頼政、平清盛の横暴を憤り高倉宮以仁王の令旨を奉じ平家打倒の義兵を挙ぐ
平家の下で従三位まで登りつめながら大義に殉じたこの老将を、人は敬意を込めて源三位(げんざんみ)と呼ぶ。彼の意思は、源頼朝へと受け継がれ大成していくこととなる。頼政は源頼光の流れを汲む摂津源氏、いっぽう頼朝は頼光の弟筋にあたる河内源氏。これ以後の歴史で活躍するのは主に河内源氏の流れとなる。頼政は摂津源氏の最大にして最後の華であった。
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