世直しといっても、まつりごとを私する奸物を除くのは「改革」だが、権力そのものを否定するのは「革命」である。そういう意味では桜田門外の変と天誅組の変・生野の変は指向の異なる動きである。今回は生野の変を取り上げるが、これは幕政改革を目指したものではなく、明らかに新権力の樹立につながるものであった。
朝来市生野町口銀谷に「生野義挙趾」と刻まれた大きな石碑がある。
生野義挙とは何か。そもそも「義挙」という語には正義の行為だというニュアンスがある。歴史的事象の名称に正邪の解釈が含まれているのは一面的な見方なので、通常は「生野の変」と呼ばれる。ともかくこの「変」がどのように「義挙」だったのか、石碑裏の碑文を読んでみよう。(カタカナはひらがな、旧字体は新字体、句読点挿入)
生野義挙は、幕末大和天誅組と相呼応し、尊王討幕の先駆をなせしものなり。即ち文久三年十月十一日、主帥沢宣嘉以下、平野二郎、多田弥太郎、河上弥市等、兵を挙げ代官所を襲い、此処に陣せしも時利あらず、一は退いて再挙を策し、一は近郷妙見山に拠り遂に自刃す。山口護国神社是なり。事成らずと雖も、為に天下の義気を鼓吹し、能く明治維新の導火を為せり。爰に紀元二千六百年記念の威儀に際会し、碑を当時の本陣趾に建て以て遺跡を明にし尽忠報国の大精神を無彊に昂揚せんとす。
昭和十五年十月 生野町建之
時は文久3年(1863)8月13日、長州藩尊攘派の工作が奏功し、孝明天皇の攘夷親征の詔が発せられる。その先駆けを務めるべく天誅組が大和で挙兵し、五條代官所を占拠するものの、八月十八日の政変で長州藩尊攘派及び同調する公家が追放される。梯子を外された格好の天誅組は奥吉野で壊滅していくのだった。
この天誅組に呼応して天領生野で挙兵したのが尊攘派志士の平野國臣(平野二郎)、南八郎(河上弥市)らである。総帥には七卿落の一人、沢宣嘉を戴いた。しかし、挙兵前に天誅組の壊滅を知り、慎重派の沢、平野と主戦派の南で議論となった。ここは南が押し切って挙兵は決行、代官所の占拠に成功する。
南八郎は挙兵後、地元農民の協力を得るため、次のような布告を出した。
一、年貢之儀一先三ヶ年之間半年貢ニ被仰付候事
附 諸運上之儀ハ当分不被召上候事
文久三年亥十月十三日 南八郎正義
3年間は年貢を半減し天恩を知らしむことがねらいだった。しかし3か年どころか挙兵後3日で破陣、沢と平野は逃亡、南は妙見山に立てこもるが進退窮まって自刃する。南を追い詰めたのは、総帥の逃亡を知り挙兵の行末に疑念を抱いた地元農民だった。
朝来市山口の山口護国神社に、南ら11人が自刃した「山伏岩」がある。
石碑の「正義十三士自盡之址」は、近くの竹薮で刺し違えた2人も含めたものだ。
のち、別の場所で亡くなった4人を含め、17の志士の遺骸がここに葬られ、「正義十七士之神靈」の石碑が建てられた。
新政府の樹立後、山陰道鎮撫総督の西園寺公望が生野を訪れ、大義に殉じた志士の墓碑を建立した。同じく山口護国神社境内である。
向かって右に「慶応四年歳次戊辰二月」、中央に「殉節忠士之墓」、左に「正三位中将藤原公望書」と刻んでいる。よく見ると碑文の文字の輪郭が欠けている。明治期の博打うちが験かつぎに欠いたものらしい。彼らがあやかろうとしたのは、身を投げ打った南ら志士の気概なのか、それとも西園寺公望という勝ち馬なのか。
脱走した平野國臣はしばらくして捕縛され獄死、沢宣嘉は逃げ延び明治政府で要職を務める。維新後の彼の事績を『朝日日本歴史人物事典』から抜粋しよう。
王政復古により剥奪されていた位階を復せられ、明治1(1868)年1月九州鎮撫総督兼外国事務総督に、2月には長崎裁判所総督にそれぞれ任じられ、浦上キリスト教徒総配流などを行った。翌2年外務卿に就任したが、守旧的な尊攘派との関係が疑われ、廃藩置県(1871)に際して免官となる。
この他、条約改正は明治期の外交の大きな課題であったが、これに初めて着手したのが初代外務卿の沢宣嘉であったことも特筆に値する。大義に殉じた志士が討幕の先駆ならば、生き延びた沢宣嘉も確かに歴史を動かしたといえる。
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