ようよう六歳になる末子(ばっし)の初五郎は、これも黙って役人の顔を見たが、「お前はどうじゃ、死ぬるのか」と問われて、活潑にかぶりを振った。書院の人々は覚えず、それを見てほほえんだ。
この時佐佐が書院の敷居ぎわまで進み出て、「いち」と呼んだ。
「はい」
「お前の申立てには譃(うそ)はあるまいな。もし少しでも申した事に間違いがあって、人に教えられたり、相談をしたりしたのなら、今すぐに申せ。隠して申さぬと、そこに並べてある道具で、まことの事を申すまで責めさせるぞ」佐佐は責道具のある方角を指さした。
いちは指された方角を一目見て、少しもたゆたわずに、「いえ、申した事に間違いはございません」と言い放った。その目は冷やかで、そのことばはしずかであった。
「そんなら今一つお前に聞くが、身代りをお聞き届けになると、お前たちはすぐに殺されるぞよ。父の顔を見ることはできぬが、それでもいいか」
「よろしゅうございます」と、同じような、冷やかな調子で答えたが、少し間(ま)を置いて、何か心に浮んだらしく、「お上(かみ)の事には間違いはございますまいから」と言い足した。
学校の国語の時間に森鴎外の『最後の一句』を習った。奉行の胸に娘の言葉が刺さったように今の私にも忘れられない警句である。
三鷹市下連雀四丁目の禅林寺の墓地に「森林太郎墓」がある。すぐ傍にある太宰治の墓はこの日行われた桜桃忌のためお供え物でいっぱいだったが、鴎外の墓は対照的にひっそりとしていた。
鴎外は大正11年7月6日に遺言を書いている。禅林寺境内の鴎外遺言碑から一部引用しよう。
余ハ石見人 森 林太郎トシテ
死セント欲ス 宮内省陸軍皆
縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間
アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス
森 林太郎トシテ死セントス
墓ハ 森 林太郎墓ノ外一
字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ
依託シ宮内省陸軍ノ榮典
ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ
太宰治は「走れメロス」で今も国語教科書に登場するが、森鴎外はむしろ歴史上の人物として歴史の時間に学習する。しかし、文豪が復活するらしい。2010年5月12日の読売新聞のニュースである。
中学教科書、漱石・鴎外が復活へ
新学習指導要領に明記
中学国語の主役の座から退いていた明治・大正期の文豪の作品が、教科書に復活しそうだ。
2012年度以降に全面実施される新学習指導要領で近代の文学作品を扱うことが明記されたため、教科書会社では、編集中の新しい教科書に近代文学を盛り込む動きが始まっている。先月の全国学力テストでも夏目漱石の「吾輩は猫である」が問題に使われるなど、見直しの機運が高まっている。
「ここ20年ほどはあまり授業で扱われなくなった名作の出題はうれしい」。広島市の公立中の中学国語教諭(58)は先月20日の学力テストで、漱石の「吾輩は?」が使われたことを高く評価する。「文学的な文章を読む」という趣旨の出題で、問題作成にあたった国立教育政策研究所の担当者は「名文を授業で使ってほしいという意図があった」と明かす。
現行の中学教科書では、同作品を取り上げているのは1冊だけ。漱石の「坊っちゃん」や森鴎外の「高瀬舟」も自主学習用の補助教材として残っているだけで、授業で使われる機会は少ない。
私立横浜富士見丘学園中等教育学校で国語を教え、文学に詳しい阿武(あんの)泉教諭(40)は「漱石、鴎外、芥川龍之介は、1970年代までは教科書の常連だった」と話す。それが次第に姿を消したのは、「火鉢」や「欄間」など現代の生活ではなじみの薄い漢字が多用されるなど、生徒には難しいとの指摘が教育現場で高まったためという。
特に学習内容を大幅に減らした02年度以降の「ゆとり教科書」に伴い、明治・大正期の名作の収録が見送られる代わりに、伊集院静さんや重松清さんら現代の売れっ子作家の作品が目立つようになった。
これに変化をもたらしたのは、08年に発表された新学習指導要領だった。「国語は文化の基盤であり、一つ一つの言葉には日本人が培ってきた情感や感動が集積されている。古典や近代以降の作品に触れ、理解を深めることは重要」とし、明治以降の文学作品を扱うよう求めた。
これを受け、複数の会社が新教科書に使う作品の選考を始めており、編集者の一人は「近代の文学作品は、大人になると手に取る機会が少なく、触れるきっかけができることは生徒にとって、とても良いことなのでは」と語る。
子どもの頃から名文に触れさせようと提唱している明治大の斎藤孝教授は「今の日本語の源流は明治の文豪の作品にある。学校で教えないと、今の中学生がこの時代の作品に親しむのは難しい。若い時から作品に触れる経験を積ませることで一流の文学に気後れしなくなる効果もあるし、活字文化の振興にもつながる」と話している。
時代が移れば教科書内容が変わるのも当然だが、娘の残した最後の一句の重みは、新しい世代にも理解できるし知っておいてもらいたいことだ。お上の定める学習指導要領に間違いはございますまいから。
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