昨年は大河ドラマ「龍馬伝」のおかげで龍馬ブームだった。ゆかりの地として賑わったのは高知や京都だけではなかった。伊豆半島の下田では「龍馬コイン」と「龍馬小判」が地域通貨として発行されたほか様々なイベントが実施されたようだ。下田は古くは唐人お吉、そしてペリー、龍馬と有名人のゆかりが深く、それを上手く観光に活用している。
2004年には下田開港150周年の記念事業が行われた。「開港150周年記念コイン(ペリーコイン)」も発行された。950円で1000円分使えるというお得なコインだった。コイン1枚は1ペリーである。
毎年「黒船祭」というイベントを実施しており昨年で71回を数える。人気イベントの一つに再現劇「下田条約調印」がある。時々笑いをとったりしながら日米友好を演出している。写真は条約調印を終えた林大学頭、ペリーらがバンザイをしている様子だ。私が見たのは第65回の黒船祭だった。
下田市三丁目に「了仙寺」がある。法順山了仙寺といい日蓮宗の寺で国指定史跡となっている。5月はアメリカジャスミンの花がとても美しい。アメリカジャスミンの和名はニオイバンマツリ(匂蕃茉莉)というそうだ。アメリカといい外国を表す蕃といい、このお寺にふさわしい花だ。
了仙寺が国によって史跡に指定されているのは、ここが開国の舞台となったからだ。説明板では次のように記している。
嘉永七年(安政元年‐一八五四)三月、神奈川において日米和親条約が締結されて下田が開港場となると、ペリー艦隊は次々と入港してきた。
ここ了仙寺は、上陸したペリー一行の応接所となり、同年五月に日本側全権林大学頭等とペリーとの間に和親条約付録下田条約が当寺において調印された。これにより、了仙寺は玉泉寺とともに米人休息所となった。
了仙寺で結ばれた条約の内容を、(社)日米協会の日米交流150周年記念事業公式サイトから引用させていただこう。
日本國米利堅合衆國和親條約付録
日本國之合衆國よりの使節提督ペルリと、日本大君の全権林大学頭井戸対馬守伊沢美作守都筑駿河守鵜殿民部少輔竹内清太郎松崎満太郎、両國政府の為、取極置候条約附録、
第一ヶ條
一、下田鎮台支配所の境を定めんが為、関所を設くるは、其の意の儘たるべし、然れども、亜墨利加人も、亦既に約せし日本里数七里の境、関所出入りするに障ある事なし、但日本法度に悖る者あらば、番兵是を捕へ其の船に送るべし、
第二ヶ條
一、此の湊に来る商船、捕鯨船の為、上陸場三ケ所定置き、其一は下田、其一は柿崎、其一は港内の中央にある小島の東南に当る沢辺に設くべし、合衆國の人民必日本官吏に対し丁寧を尽くすべし、
第三ヶ條
一、上陸の亜墨利加人、免許を請ずして、武家町家に一切立寄るからず、但寺院市店見物は勝手たるべし、 第四ヶ條
一、徘徊の者休息所は、追て其為旅店を設くるまで、下田了仙寺、柿崎玉泉寺二ヶ寺を定置べし、
第五ヶ條
一、柿崎玉泉寺境内に亜墨利加人埋葬所を設け、麁略ある事なし、
第六ヶ條
一、神奈川にての条約に、箱館において石炭を得べきとあれども、其地にて渡し難き趣は、提督ペルリ承諾いたし、箱館にて石炭用意に及ばざる様其政府に告ぐべし、
第七ヶ條
一、向後両國政府に於て、公顕の告示に蘭語訳司居合はざるの外は、漢文訳書を取用ふる事なし、
第八ヶ條
一、港取締役壱人、港内案内者三人定置べし、
第九ヶ條
一、市店の品を撰求むるに、買主の名と品の価とを記し、御用所に送り、其価は同所にて日本官吏に弁じ、品は官吏より渡すべし、
第十ヶ條
一、鳥獣遊猟は、都て日本に於て禁ずる所なれば、亜墨利加人も亦此制度に伏すべし、
第十一ヶ條
一、此度箱館の境、日本里数五里を定置き、其地にての作法は、此条約第一ヶ條に記す処の規則に倣ふべし、
第十二ヶ條
一、神奈川にての条約の書翰を差越し、是に答ふるには、日本君主に於て誰に委任あるとも意の儘たるべし、
第十三ヶ條
一、茲に取極置く処の規定は、何事によらず、若神奈川にての条約に違ふ事あるとも又是を変る事なし、
右条約附録エゲレス語、日本語にて取認め名判致し、是を蘭語に翻訳して、其書面を合衆國並日本全権双方取替すもの也、
嘉永七年五月廿二日、下田に於て、
林大学頭 花押
井戸対馬守 同
伊沢美作守 同
都筑駿河守 同
鵜殿民部少輔 同
竹内清太郎 同
松崎満太郎 同
条約は一方的にアメリカに押し付けられたものではない。日本側も主張すべきは主張して条文に盛り込み、Win-Winの関係を築こうとしている。了仙寺には、上の写真のようにアメリカ国旗と、写ってはいないが反対側に日本国旗が掲揚されている。日米友好のお寺である。
下田市一丁目に「宝福寺」がある。八幡山宝福寺といい浄土真宗本願寺派のお寺で、唐人お吉の墓があることで有名だ。
この宝福寺も開国の条約調印の舞台の一つである。説明板を読んでみよう。
嘉永七年(安政元年‐一八五四)三月に締結された日米和親条約により下田開港となり、ここ宝福寺は新たに設置された下田奉行都筑駿河守が宿舎とし、仮奉行所となった。ペリーとの間に結ばれた和親条約付録下田条約交渉の際の日本側全権の打合せ場所ともなった。ロシア使節プチャーチンが下田に来航し、日露和親条約の交渉の際も応接掛筒井政憲や川路聖謨等の協議が当寺で行われた。文久三年(一八六三)下田に入港した大鵬丸に乗船していた土佐藩山内容堂が当寺に宿舎をとり、たまたま順動丸で入港してきた勝海舟が訪れて坂本龍馬の脱藩の罪の許しを請い、認められた。
宝福寺が奉行所とされたことは向かって左側の柱に掲げられている標札に示されている。2004年当時は坂本龍馬の話はほとんど耳にしなかったし、説明板を読んだ私も気に留めなかった。ところが昨年来ここは「坂本龍馬飛翔之地」となっている。新たな意義の発見である。こうして歴史は深まっていくのだろう。
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