各地のイベントで鉄砲隊が登場し轟音を響かせて会場を盛り上げている。今でこそ出しものの一つだが、かつては軍事技術の最先端だった。板橋区民まつりで毎年活躍しているのが西洋流火術鉄砲隊である。我国陸軍創設者の一人、高島秋帆先生の事績を今に伝える鉄砲隊である。
板橋区赤塚八丁目の松月院の境内に「高島秋帆先生紀功碑」がある。
珍しい形状の記念碑である。砲術家の秋帆先生だから大砲だとわかるが模造品ではない。安政四年(1857)鋳造の24ポンドカノン砲であった。この地と大砲の関係を説明板に解説してもらおう。
この紀功碑は、別名火技中興洋兵開祖碑とも呼ばれ、ここ松月院に本陣を置き、徳丸原で日本最初の本格的な西洋式砲術を指揮した、高島秋帆を顕彰する目的で大正十一年十二月六日建立された記念碑である。
高島秋帆は、寛政十年長崎町年寄の名家に生まれ、長じて出島のオランダ人より西洋の砲術を学んだ。天保十一年、中国清国と英国との間で阿片戦争が勃発し、西洋の進んだ軍事技術に清国が大敗すると、その危惧が日本に及ぶことを恐れた高島秋帆は、天保上書を幕府に上申、日本の従来からの砲術技術の変革を唱え、西洋列強諸国に対する防備の一環としての西洋式軍事技術の導入を説いた。
天保十二年五月七日~九日までの三日間、高島秋帆は赤塚の朱印寺として名高い松月院に本陣を置き、門弟一〇〇名と起居を共にしながら、現在の高島平、徳丸原にて洋式砲術調練を公開し、世にその名声を得たが、間もなく讒言にあい永牢に繋がれた。
嘉永六年夏、十一年に及ぶ幽閉を解かれた高島秋帆は、江戸幕府の肝入りで講武所を開設し、支配及び師範に出仕し幕府あるいは諸藩の西洋式軍事技術普及に貢献した。慶応二年正月江戸小石川にて六十九歳の生涯を閉じた。日本陸軍創設者の一人として名高い。
紀功碑は、安政四年に鋳造された銅製二十四斤加農砲を碑心に火焔砲弾四発を配した大理石製の台座にのせた特異な形をとり、砲術に長けた高島秋帆を象徴する。総高六メートル。
日本の軍事技術近代化の嚆矢いや号砲となった徳丸ヶ原の演習の本陣がこの場所であった。秋帆先生が日本陸軍創設者の一人と称される所以である。板橋区教育委員会『いたばし風土記』では次のように紹介されている。
秋帆は長男浅五郎とホーイッスル・モルチール・ブラントコーゲンと呼ばれる大砲を、弟子八十余名に引かせて江戸へ、更に赤塚へと進み、天保十二年(一八四一)五月七日に松月院へたどり着きました。この寺を本陣として二晩泊まり、九日に山の下の徳丸ヶ原、今の高島平で幕府の役人・大名連中が見守る中を、荒川に向って実弾射撃を行ない、歩騎兵の調練を一糸みだれず披露して西洋兵術の精華を遺憾なく発揮して見学者をおどろかせました。これが明治の新政府になって実をむすび、後年の日本陸軍ができ上がるわけで、いわばここが陸軍発祥の地であります。
場所は跳んで、川口市本町一丁目の増幸産業株式会社の敷地に「18ポンドカノン砲」がある。
川口といえばキューポラのある街、鋳物の町であるが、もしかして大砲まで…。同社作成の資料「大砲の歴史」を読んでみよう。
この大砲は、幕末の嘉永5年 (1852年)に津軽藩より依頼を受けた増田安治郎(川口の鋳物師として名のあった当社代表の増田家初代)が、後の砲術奉行を勤めた高島秋帆と協力して作り上げたものの復元品で、当時は製作不可能とされていた大型砲です。嘉永5年から安政5年の5年間(1852~1857)に213門の大砲と41,323発の砲弾が製造され、諸外国から日本を守るために全国各地に配備されました。
全長3.5m 重量2.5トン 口径15cm 射程距離2500m
やはりそうであったか。さすがは高島秋帆先生。先生のパートナーは幕末から遥か現代へと続く優良企業でしたぞ。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。