白河の清きに魚もすみかねて…、この狂歌のせいか、学校で習ったころから松平定信のイメージがどうもよくない。決定的だったのは、みなもと太郎『風雲児たち』を読んだときである。田沼意次の新政策に共感すればするほど、定信が頑迷固陋の政治家に思えてしかたなかった。
江東区白河一丁目の霊巌寺に「松平定信墓」がある。白河は定信が白河藩主で白河楽翁と呼ばれたことに由来する。
門柱には「松平楽翁公霊域」「昭和四年五月修築」とある。昭和4年は1929年で、文政12年5月13日(1829年6月14日)に没した楽翁公の百年忌に当たる。昭和4年6月14日には、あの渋沢栄一が出席して墓前祭が行われた。渋沢は楽翁公遺徳顕彰会の会長も務めている。
東京都立図書館の蔵書を検索すると、楽翁公遺徳顕彰会『東京都の恩人松平定信公』という本があることが分かる。そうだったのか、私は不明を恥じたい。それほどまでに感謝されているとは。一面的な見方をしてはならなかった。どのような事績が評価されるのか、江東区『史跡をたずねて』を読んでみよう。
とくに江戸に町法を施行し、七分積金の制度を創立し、災害救護の施策を行い、この積金が、明治初年に東京府に引きつがれ、諸施設の建設に役立ちました。
なるほど、定信公の始めた施策が東京の街づくりに役立ったわけだ。毎年6月14日には霊巌寺で楽翁公墓前祭が営まれている。今日は楽翁忌であった。東京の恩人を偲ぶ日なのである。
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