原発事故の収束の見通しが持てない中で、また首相交代の季節になった。ボスニア・ヘルツェゴビナという国は国家元首が輪番制で8か月ごとに交代するという。代表がコロコロ変わるなんて国が安定していない証拠だと勝手に思っていたら、政治に責任を負うシュピリッチ内閣は2007年以来続いている。安定していないのは原子炉ならぬ我が国の政治であった。
江東区夢の島2丁目に「第五福竜丸」が展示されている。
第五福竜丸事件なら日本史で習った。この事件を契機として原水爆禁止運動が盛り上がり、翌年には第1回原水爆禁止世界大会が開催される。亡くなった久保山愛吉さんの言葉「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」とともに核兵器廃絶の象徴として船体が保存されている。
被爆時の状況を(財)第五福竜丸平和協会『ビキニ水爆実験被災五十周年記念・図録 写真でたどる第五福竜丸』(2004年)で読んでみよう。
1954(昭和29)年3月1日午前6時45分(現地時間。日本時間午前3時45分)、マーシャル諸島のビキニ環礁でアメリカは水爆ブラボーの爆発実験を行った。操業中のマグロ漁船第五福竜丸の乗組員は、西の空が突然明るく輝き大きな火のかたまりが浮かぶのを目撃した。
数分後、大きな海鳴りをともなう爆発音がとどろいた。2、3時間たつと空全体をおおった雲から白い灰のようなものが落ちてきて、しだいに雪のように降りそそぎ、甲板に足跡がつくほどに積もった。白い灰は乗組員23人の顔、手、足、髪の毛に付着し腹巻きにもたまった。鼻や口から体内にも吸い込んだ。やがて「死の灰」と呼ばれるこの白い灰は、核爆発によって吹き上げられた大量の放射能を含んだサンゴ礁の細かいチリで、付着したところは、放射線により火傷の状態になった。頭痛、吐き気、目の痛みを感じ、歯ぐきからは血がにじみ、髪の毛を引っ張るとぬけるなどの症状を示した。
その後、第五福竜丸は焼津港に戻るが、水揚げされたマグロなどからは放射能が検出される。「原子マグロ」と呼ばれて騒ぎになった。同じく図録から引用しよう。
水産庁は海域を指定し、指定海域で操業した漁船はすべて公衆衛生局が指定した5つの港(塩釜、東京、三崎、清水、焼津)のいずれかに入港することを義務づけ(3月18日)、放射能検査を実施した。大阪、勝浦(和歌山)、室戸、長崎など13の港でも検査が始まった。54年12月末までの集計で、汚染魚を水揚げした船は856隻、廃棄された魚は485.7トンにも及んだ。
全国の魚屋、寿司屋などの商いはお手上げとなった。「魚屋殺すにゃ3日はいらぬ、ビキニ灰降りゃお陀仏だ」(浅草魚商連合会)など、怒りの声があがった。
同じようなことが今も繰り返されている。原因が核兵器か壊れた原発かの違いだけだ。放射能を人の手によって発生させる限り、自然の恵みを汚染する危険性はなくならない。核エネルギーの利用は戦争目的ならダメで平和利用ならよしとする考え方、原子力発電に頼るようになった電力消費の構造を変えていく必要がある。
中日新聞の静岡版に6月5日つまり本日付けで、「『原発必要ない』放射能の怖さ切々 第五福竜丸乗船2人 思いひとつ」との記事が掲載された。第五福竜丸事件は決して過去の出来事ではない。展示されている船は、現実に直面する日本の課題、そして将来の在り方を考えるきっかけを与えてくれているのだ。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。