平櫛田中の傑作に「活人箭」がある。弓を構える格好をして禅を説く和尚の姿なのだが、初めは実際に弓矢を持っていた。これを外させたのは「あんな姿では死んだ豕でも射れやしない」という岡倉天心の指導だったという。これによって見えないものが見えるようになり、作品に静寂と緊張感が生まれたのである。
私は入道雲を見ると「活人箭」を思い出す。静寂や緊張感という高い精神性とは真逆の、蝉の鳴き声とうだるような暑さの中で見る入道雲。何かを言っているかのようにゆっくり形を変えていく。「活人箭」に似ているのは、形かもしれないし迫力かもしれない。
姫路市安富町関に県の名勝に指定されている「鹿ケ壺(しかがつぼ)」がある。
確かに鹿に見ようと思えば見えるが、ハリネズミに見えてしまう。私たちは目に入る形を記号化して、自分の記憶している何かに一致させることで対象を認識している。この丸みと口先のとがり具合は、やはりハリネズミだろう。
何に見えようが、それは大したことではない。重要なのは、なぜ穴が開いたのかだ。説明板が上と下にあるので、どちらも紹介しよう。
鹿ケ壺
鹿ケ壺は、地学上甌穴(ポットホール)と呼ばれます。
この岩盤を作っているのは流紋岩質の溶結凝灰岩です。
山地の急傾斜の渓流の川床が岩盤になっていて、急な流れはくぼみの砂や小石を旋回させ長年月の間に岩盤に大きな円孔をつくったものです。
鹿ケ壺は、県下で最も大規模な甌穴群で、名称のついているものだけでも八つあります。その景観は特異であるから、眼下に見える「底無壺」は飾磨(瀬戸内海)の海へつながっているとか、「底無壺」には主が住んでいてそれは赤い蛇だとか、竿を入れると大雨が降るなどの伝説があります。
「鹿ケ壺」の名称は、この看板のすぐ横の甌穴がちょうど鹿の寝姿に似ていることに由来しています。
しそう森林王国林田川の源流鹿ケ壺は、雪彦峰山県立自然公園内にあり、滝の流れは二十度から九十度の階段状の急斜面を水が上流から運んだ石や砂とともに流れ落ち、階段面において旋回し、数十万年の長い歳月に岩盤、河床をえぐり、岩質は石英粗面岩のかたい岩質であるが削り磨いて、大小数十個の甌穴をつくり、これらの甌穴に鹿ケ壺、底無し等その形状にちなんで古くから名前が言い伝えられています。最大の甌穴が鹿ケ壺であり、鹿が寝ている姿に似ており、鹿ケ壺と名づけられ全体の代名詞となっております。底無し壺はその深さ約6メートルあり、まったく底が見えないところから名前がつけられこれらすべて一枚岩盤で出来ており、甌穴の大きさ、またその数においても全国的にもめずらしいと言われております。
甌穴については「『東洋一』と言われる甌穴群」「天然記念物となった川底の穴」「川底に開いた穴」で紹介した。川床の岩質はそれぞれ花崗岩、泥岩砂岩礫岩、凝灰岩と、一致していない。ここ鹿ケ壺は「流紋岩質の溶結凝灰岩」「石英粗面岩」だという。
石英粗面岩は流紋岩の古い呼び名でる。石英などのケイ酸分を多く含むマグマが地下深部で固まると花崗岩となり、地表近くで急冷されると流紋岩となる。噴出して火山礫や火山灰が高温のまま堆積して溶け固まったものを溶結凝灰岩という。白亜紀後期の大規模な火山活動によって形成されたと考えられている。
それから深い甌穴となるまでに、どれほどの時間がかかったのだろう。以下七つ連続する甌穴を下に向かって順に紹介していこう。
「オハグロ壺」である。
瀬戸内海につながっているという「底無」である。深さ6mというから、誰かが竿を突っ込んで測ったのかもしれない。大雨になったのはそのせいか。
「駒ノ立洞(こまのたてどう)」である。
「五郎田壺(ごろうたつぼ)」である。
「雑桶壺(ぞうげつぼ)」である。
「五郎在壺(ごろうざつぼ)」である。
最後は「尻壺(しりつぼ)」である。
一番上の鹿ケ壺には、さらに上流に大河ドラマ「軍師官兵衛」のロケ地がある。写真奥の少し太い木のあたりがオープニング映像に使用されている。岩盤がむき出しになり、川のような山道のようなあまり見ない風景だ。よく探し出したものだ。説明板を読んでみよう。
鹿ケ壺
鹿ケ壷は、渓谷の岩床が侵食されてできた大小数十個からなる滝壺で兵庫県の名勝にも指定されています。
滝壺の上流の渓流で平成26年NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の撮影が行われました。
撮影された映像は、岡田准一さん扮する黒田官兵衛のCG映像と複雑な木々が織りなす幻想的な風景により、神秘的で感動を誘うオープニングシーンとして使用されています。
滝壺ではなく甌穴なのだが、そんなことはどうでもよい。この山中が大河に登場したのである。その幻想的な風景は、私たちの想像力を掻き立てる。白亜紀後期の火山活動、深い穴を穿つほどの激流、鹿の寝姿への見立て、そして、これから先の長い歳月。官兵衛の苦難も活躍も、私の悩みも野望も、すべてを呑み込む悠久の自然がここにある。人を活かす箭とは、まさにこのことなのだろう。