10月2日は「結城朝光の日」だと結城市が定めている。その心は? 結城市ホームページから引用しよう。
1180(治承4)年10月2日、14歳の結城家初代「結城朝光」が、隅田川のほとりで源頼朝に面会し、元服し、家臣となったことが『吾妻鏡』の中に記されている。結城の名を歴史に記させ、全国に知らせることとなった日
結城の名を全国に知らしめた結城家。結城市民の誇る名族である。
結城市大字結城(小塙)の「慈眼院結城家御廟」は、市指定文化財である。
ここには初代朝光から16代政勝までの結城家当主を含め計20基の五輪塔がある。写真には初代から8代くらいまでの当主の五輪塔が写っている。慈眼院というがお寺はない。そのあたりの事情を『結城の歴史』(結城市発行)で読んでみよう。
政勝は、大谷瀬に慈眼院を創建し、一五五三年(天文二二)、結城城内にあった朝光以降の結城家歴代の御廟所を同寺に移した。八尺四方の御堂に、政勝の守本尊観音菩薩を安置した。それは八尺堂といわれ、政勝の遺骸が埋葬されたと伝えられる。慈眼院は、江戸時代まで乗国寺に属していたが、今は廃寺となり小高い丘に結城家廟所のみが残されている。見事な五輪塔が並ぶ墓の周囲は、土塁・堀を構え、塚全体には、玉石が並べられている。床面には、大谷石が敷きつめられ、往時がしのばれる。
廟所を整備したという結城政勝は、分国法として著名な結城家法度(結城氏新法度)を定めた戦国大名である。この法度は弘治2年(1556)に定められた107条からなる法典で、次のような定めもある。
誰成共朝夕皮(革)袴にて出仕すべからず、何時も布袴、然らざれば木綿袴然るべく候、又見候へば、木綿肩衣召され候、なかなか見悪く候、やめられべく候
木綿の肩衣を着ているのは見苦しいので止めよ、というわけだ。このように細かく規定して家臣団の統制を図ったのだろう。廟所の整備は、主家への求心力を高めるための聖地建設だったのかもしれない。
しかし、この廟所は政勝の手によるものではないという説もある。現地説明板を読んでみよう。
御廟成立の時期については、次のような説があります。
(一)政勝が隠居後、各所にあった先祖の墓を移して、惣御廟を築造した。
(二)十八代秀康が、越前に転封するにあたり、結城家に関わる諸寺院を越前に移転するに際し、各寺院等の歴代の墓を移して、御廟を築造した。
(三)秀康の転封後、この地方を治めた代官(伊奈備前守忠次)が、領民懐柔策の一環として、結城氏歴代の御廟を築造した。
いずれも一理あって興味深いが、やはりここは結城政勝が祖先の遺業を顕彰するために築造したと考えたい。
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