「げんのう」なら知っていた。うちにもあるデカい金槌だ。それが有徳のお坊さまの名に由来し、そのお坊さまの割った石が日本各地へ飛び散り、その石に変化していた妖怪は美女となって上皇をだまし、古くはインドや中国でも悪行を重ねていた三国伝来の妖狐だったとは。
結城市大字結城(玉岡町)に「源翁和尚の墓」がある。近くにある安穏寺が管理している。
その金毛九尾(きんもうきゅうび)の狐は、歴史上何度も美女に変化して王侯をたぶらかせてきた。殷の紂王には妲己(だっき)として、天竺の天羅国の斑足王には華陽夫人として、周の幽王には褒姒(ほうじ)として、そして本朝には吉備真備の遣唐使帰朝船に若藻(わかも)となって乗り込んで渡来し、鳥羽院には化粧前(けしょうのまえ)として出現し、院は玉藻前(たまものまえ)の名を与えて寵愛する。
日毎に弱りゆく鳥羽院を救うため陰陽師の安倍泰成が調伏して妖狐を御所から追い出す。妖狐退治の院宣が下され東国の武将、上総介と三浦介が那須野に向かうが、変幻自在の妖狐をなかなか射止められない。そこで三浦介は犬を相手に訓練を重ね、ついに退治に成功する。これが犬追物の起源だという。
それでも妖狐の邪念は石と化して毒気を吐き、飛ぶ鳥を落とし近寄る人獣を斃した。那須野の「殺生石」である。これを鎮めるべく招かれた高僧、源翁和尚が数日間の断食加持勤行の末、大喝して殺生石に鉄槌を下すと、石は3つに破砕し日本三高田に飛散した。高田は越後、安芸、美作、あるいは豊後ともいう。
時空ともにスケールの大きなこの伝説の主役、金毛九尾の狐の御霊を鎮めた源翁和尚について、『結城の歴史』(結城市発行)は次のように記している。
一三七一年(応安四)、源翁心昭は曹洞宗安穏寺を聞いた。その開基は、やはり結城直光である。源翁は各地に曹洞宗を広めた人で、結城に四年いたのち会津へ行き、さらに那須では、一三八五年(至徳二)、殺生石の災いを除き、福島県熱塩で九五年(応永二)に没している。源翁が那須の殺生石を砕いて石の霊を成仏させた話は、彼とその門人たちが石工に関係があり、源翁の周囲に職人たちがいたことを思わせる。また、そのことから鉄鎚を「ゲンノウ」と呼ぶといわれている。
福島県喜多方市熱塩加納町にある示現寺には源翁禅師の墓がある。結城にある和尚の墓は供養塔ということか。
この写真が美作に飛来した殺生石を埋めた「殺生石塚」である。真庭市勝山の化生寺にある。このように説明されている。
那須原より飛来した殺生石を地下一丈六尺(約五米)に埋め、その上に標本石を設置したと傳えられている。
勝山はかつて高田と呼ばれていた。伝説の舞台が急に東日本から西日本に飛んだ印象だが、実はそうでない。この地の地頭から戦国大名となったのは三浦氏、勝山藩主も三浦氏。両者に連続性はないのだが、どちらも関東の有力豪族、三浦義明を先祖に持つ。金毛九尾の狐を退治した三浦介が御先祖様だったのである。
三浦のお殿様が御先祖様の武勲を誇る史蹟を作ったのだろうか。それとも、本当に殺生石がわずかに残った怨念で三浦氏めがけて飛んできたのだろうか。
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