夏の暑い日に山で湧き水を飲んだことは、眩しいまでに鮮烈な思い出になっている。それほど劇的な状況で水に辿り着いたわけではない。車で通りかかった場所に湧水があり飲めるようにしてあったのだ。ただ喉の渇きと自然の水が飲めるんだなという単純な理由が、水の美味さと同時に水が湧き出ることの不思議に気付かせてくれた。
宇治市宇治山田の宇治上神社に「桐原水(きりはらすい)」がある。
宇治上神社は拝殿や本殿が国宝で、特に本殿の建築年代は1060年と神社建築として日本最古の遺構だそうだ。1994年に世界文化遺産に登録されている。
本殿は覆屋(おおいや)と内殿三社から成り、下の写真は内殿のうち向かって右の左殿である。もう少しレンズを上に向けていれば「蟇股(かえるまた)」が写ったはずだ。足先しか見えないが、醍醐寺薬師堂中尊寺金色堂と並ぶ三名蟇股だそうだ。
この左殿に祀られているのが菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、応神天皇の皇太子である。父帝崩御の後、兄君を差し置いて位には即けないと宇治の離宮に隠棲し、ついには自ら命を絶って兄に皇位を譲った。兄は仁徳天皇と呼ばれる。これらの三人が三社にそれぞれ祀られているわけだ。
菟道稚郎子の宇治の離宮「桐原日桁宮(きりはらひけたのみや)」があったのが、この神社の場所だという。それで近くの宇治神社と合わせて「離宮明神」とも呼ばれていた。『扶桑略記』には治暦三年(1067)十月七日条に「離宮明神授其位記」と記されている。平等院に行幸した後冷泉天皇によって神位が授けられたという。平等院と離宮明神は対の関係にあった。
離宮の名を伝える名水、桐原水の由来を宇治上神社のリーフレットで読んでみよう。
時代が室町期に入り、宇治茶が隆盛を極める様になって、茶園を象徴するものとして、「宇治七茗園」なるものが作られた。それに重なり伝えられる「宇治七名水」の一つに数えられ、他の六名水がすべて失われた現在、現存する唯一のものである。
ただ当社の場合は、お茶の水としてよりも、神詣の為の手水として、より古い時代より使用されたものである。
宇治七名(茗)園は次のような名寄せ歌で人口に膾炙していたという。(『宇治市史』6)
もり祝宇もじ川しも奥のやま ふもとの朝日琵琶を弾くなり(朝日につゞく枇杷とこそ知れ)
つまり、森、祝、宇文字、川下、奥ノ山、朝日、枇杷(琵琶)という7か所の茶園である。このうち今に残るのは「奥ノ山」だけのようだ。
一方、宇治七名水は桐原水、泉殿、阿弥陀水、法華水、高浄水、公文水、百夜月井である。現存唯一が桐原水とのことだが、今年このようなニュースがあった。
法華水の井戸を再現 「宇治七名水」、平等院境内に
「宇治七名水」の一つで、平等院の境内にあったとされる「法華(ほっけ)水」が、京都府宇治市の女性の寄付で鳳凰堂西側とされる推定地に井戸を掘り、再現された。8日の記念式典で出席者は、地下水が育んだ平安貴族の庭や茶所の歴史に思いをはせた。
七名水は、桃山時代~江戸初期の文献に登場する宇治茶の「七名園」と同時期に、成立したと推定される。宇治上神社の湧き水、桐原水のみ現存する。平等院にあった法華水と阿弥陀水は、文献によると明治初期には失われた。
(中略)
平等院によると、絵図を基に、推定地を掘削したところ、水がにじみ出てきたという。井戸の枠は縦横約85センチ、高さ約50センチで、井戸の深さは1メートル弱。横に石碑も設置した。
法華水は、飲料用には提供していない。
京都新聞社(2011年9月9日11時27分)
「綾鷹」というペットボトルのお茶をよく飲む。450余年の歴史がある宇治の老舗茶舗、上林春松本店の協力を得て開発されたという。どこの自動販売機でも見かけるお茶だが、中世の文化、古代の離宮にも思いを馳せることができる。
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