水野忠邦といえばビッグネームだ。結城の観光パンフレットで彼の墓所を見つけると、本日の史跡巡りのゴールと定めた。JR結城駅北側の古寺や城跡を探訪した後、市南部の山川を目指して自転車を南に向け、県道結城岩居線を順調に進んでいるとパンクした。駅近くまで戻り自転車屋さんで直してもらい再び出発したが、タイヤの傷がまた開いてしまった。平成16年9月半ばのことである。
その日は諦めてパンクした自転車を折りたたんで電車に乗ったのだが、ここまで来て墓参ができぬのは悔しい。月末には東京を離れる身だ。最後の機会を捉えもう一度結城に行き、今度は歩いて山川に向かった。そして3時半を過ぎて着いたのがここである。
結城市山川新宿に「水野越前守忠邦の墓」がある。県指定文化財である。
水野忠邦といえば老中として天保の改革を断行した辣腕政治家である。才能を発揮するにはそれなりの地位が必要と、出世のために人脈と金脈を使って自分を売り込んだ。もとは唐津藩主だったが、幕閣へ入るために石高は少ないが出世城の浜松へ転封してもらった。老中で一族の水野忠成(ただあきら)に対してはかなりの運動費が掛かっているらしい。
水野氏といえば譜代大名として有名で、記憶に残る人名としては水野勝成、水野忠成、水野忠邦が挙げられよう。勝成は「鬼日向」と呼ばれた猛将で備後福山藩主、1700年から結城藩主となる水野日向家(水野氏宗家)の祖である。忠成は化政期の弛緩した幕政を担当した老中で「水のでて もとの田沼と なりにけり」と評された。勝成の弟忠清を祖とする水野出羽家で沼津藩主であった。そして忠成に引き立ててもらった忠邦は、勝成の従兄弟の忠元を祖とする水野監物家であった。
さて、結城藩主ではない忠邦の墓所が結城にあるのは、監物家初代忠元が大坂の陣の功によって下総山川に領地を得たことによる。山川藩は1635年に2代忠善の転封により消滅するが、菩提寺の万松寺には監物家歴代の墓所が営まれた。忠邦は1815年、42年に万松寺を訪れている。
忠邦の天保の改革はどのような評価を受けたのだろうか。角川書店『世界人物逸話大事典』を読んでみよう。
天保の改革は良い面と悪い面と半々であったが、難渋する者もあった。ある時、水野の屋敷の門に猫を四匹と、鰈(かれい)一匹落書きした者があった。これは「死ニヤアがれ」という、悪口であった。
また忠邦が老中を罷免された際には、「ふる石や 瓦飛び込む 水のうち」のように、民衆からの報復を受けたという。幕府からは謹慎を命ぜられ、監物家も山形へ懲罰的に転封させられる。
忠邦が亡くなったのは嘉永4年(1851)2月10日。墓碑銘は「濱松城主從四位下侍從越前守源朝臣之墓」である。
不遇な晩年の唯一の楽しみは歌を詠むことだった。墓碑には次のように刻まれている。
くみてこそむかしもしのべゆく川のかえらぬ水にうかぶ月かげ
辞世だという。川の水は流れゆくが月だけは川面に留まっている。忠邦が思いを馳せたのは、老中として天下に号令した自分の姿だったのか、それとも権威を高めようとした幕府の行く末だったのか。
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