史跡巡りはイマジネーションに遊ぶ旅である。一基の石碑から景観と事象を復元する、言わば無から有を産み出す行為である。下の写真を見よ。何もない…さにあらず、法起寺式の七堂伽藍があったのだ。
結城市大字上山川字古屋敷に「結城廃寺跡」がある。
古色の趣深い寺院を想像するのは簡単だが、彩色鮮やかな古代寺院はイメージが湧かない。奈良時代初め頃に創建され、嘉吉元年(1441)の結城合戦の兵火によって焼失するまでの約700年間存続したという。
いま目に見える形での遺構はないが、写真左から続いた回廊が中央で向こうに折れ曲がり中門につながっていた。回廊の中は手前に金堂、その向こうに塔があった。
イマジネーションを駆使しなくとも目を見張るのは、1991年に「法成寺(ほうじょうじ)」との銘がある瓦片が発掘されたことだ。この寺院は『将門記』に登場するのだという。さっそく読んでみよう。
即以亥尅、出結城郡法城寺之當路、打着之程、有將門一人當千之兵。暗知夜討之氣色、交於後陣之從類徐行。更不知誰人。便自鵝鴨橋上、竊打前立、而馳來於石井之宿、具陳事由。
即ち、亥の刻を以て出ず。結城郡法城寺の当路に打ち着く程に、将門が一人当千の兵あり。暗に夜討ちの気色を知り、後陣の従類に交わりて徐行す。更に誰人なるかを知らず、便ち鵝鴨橋の上より竊(ひそか)に打って前に立つ。而して石井の営に馳せ来って、具(つぶさ)に事の由を陳ぶ。
承平7年(937)12月14日夜10時頃、平将門を倒すべく伯父の良兼の軍勢80余騎が、結城郡「法城寺(ほうじょうじ)」に着いた。そこには将門方の見張り役の兵がいて夜討ちの気配を知った。良兼軍の後ろに交じりゆっくりとついて行ったが誰も気付かなかった。鵝鴨(かも)橋でひそかに前に抜け、石井(いわい)の将門のもとに駆け込み、事の次第を報告した。
平良兼は将門の下僕を好餌で釣って館の手薄なことをつかみ、暁の奇襲作戦を敢行した。この時、将門の兵は10人足らずだったが、見張り役の報告によって迎撃の態勢を整え良兼軍30余名を倒し撃退した。以後、良兼の勢力は衰えてしまう。武将良兼最後の戦いであった。
私が初めて見た大河ドラマは『風と雲と虹と』である。だから平良兼といえば長門勇を思い出す。初めて買った文庫本は大岡昇平『将門記』である。読めない字に振り仮名を振ったことが懐かしい。
大人になっても平将門への関心は高いものの、史跡が関東方面のため行く機会がない。東京に暮らしていた半年間に行けばよかったのだが、ゆかりの地である岩井市(当時)は鉄道によるアクセスには不便で、結局行きそびれてしまった。結城市内を歩いている時、道路案内標識に「岩井」の文字を見つけた時に心が疼いたことを覚えている。
しかし今回、「結城廃寺跡」を題材に書いている中で、ここが『将門記』ゆかりの地であることを知り、悔しさが薄らぐ思いがしている。もっとも将門ではなく良兼に近かったようだが。
史跡は行く前に調べるもよし、史跡を前にして昔に遊ぶもよし、史跡を改めて調べて意義を見出すもよし。三方よしではなく、三度よしである。
歴史猫さま
ご覧いただきまして、誠にありがとうございます。寒い毎日ですが、春は着実に近付いていますね。
投稿情報: 玉山 | 2024/02/11 20:03
昨日、サイクリングで梅寺に立ち寄りました
花が咲きそろうには、まだ早すぎました
近くに結城廃寺跡があったんですね
もう少し暖かくなったら、見学に行きたいです
投稿情報: 歴史猫 | 2024/02/11 09:28