左翼がかつての勢いを失って久しい。一億総中流の意識が形成され、社会から階級が消失してしまったせいだろうか。果たしてそうか。階級が見えなくなっているだけではないか。搾取を受けながら搾取されたと思っていないところに本当の不幸が存在するのかもしれない。
宇治市宇治善法に「花屋敷山本家之墓」がある。山本宣治の墓である。彼は労働農民党の衆議院議員で、昭和初期における最左派の代議士であった。
墓碑の石は生駒山の自然石、揮毫は阪正臣(ばんまさおみ)である。阪は宮廷歌人にして書家、軍歌「敷島艦行進曲(敷島艦の歌)」の作詞者でもある。左派代議士と宮廷歌人という組合せに違和感を覚えてはならない。山本宣治の母・多年(たね)にとって阪は歌の師匠であった。墓碑銘にある「花屋敷」とは多年が女将を務めた旅館の名前で、吉井勇ら著名な文人も定宿にしていたという。今も「花やしき浮船園」として続き、料理のおいしい宿として定評がある。
山本宣治の死は戦前テロルの始まりであった。昭和4年3月5日夜9時40分頃、東京神田の光栄館に泊まっていた宣治は、七生義団という右翼団体に所属する黒田保久二に刺殺される。41歳であった。
墓の裏面には、彼の最後の演説から採ったあまりにも有名な一節が刻まれている。
山宣が守ろうとしたものとは何だったのか。本庄豊『山本宣治 人が輝くとき』(2009年、学習の友社)に解説してもらおう。
山宣最後の演説から
山宣ひとリ孤塁を守る だが私は淋しくない 背後には大衆が支持してゐるから
旧労農党委員長、大山郁夫の筆になるこの墓碑銘は、大阪での全国農民組合大会での山宣の演説からとったものです。「実に今や階級的立場を守るものはただ一人だ、山宣独り赤旗を守る! だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから」-ここで挨拶は中止させられました。大山郁夫は、新聞記者に当時次のように語っていました。
「山本君は我々の同志である。労働者農民の敬愛せる勇敢な階級闘士であった。外面温厚な山本君は我々の陣営がもっとも苦難の時にも無産階級解放の最後の勝利を確信して勇敢に踏み止まった人である。(中略)しかし、この白色テロの洗礼は、結局全国の労働者農民階級に憤激の血を湧かさしめ、弔い合戦の意気をもって治安維持法をはじめ一切の無産階級抑圧の悪法撤廃のために戦う政治的自由獲得の闘争に突進すべき一大くさびとなることは疑いない。」
大阪での全国農民組合大会は死の前日、3月4日だった。これが最後の演説かというと、さにあらず。暗殺の直前に東京市議会議員選挙の候補者、中村高一の応援演説をしていた。中村は戦後に衆議院副議長(日本社会党出身)を務めることになる人物である。
写真の墓碑銘には次のような受難のエピソードがある。昭和5年3月3日の大阪毎日新聞の記事の引用だが、『山本宣治 人が輝くとき』からの孫引きである。
山本氏が刺された時は、多年子母堂は「樗牛さんの墓には樗牛さんの最も好んでいた一句を刻んであるが、宣治の墓にも何か一句刻んで彼の霊を慰めてやリたい」と一人息子に対する母親のもっともな提議がなされ、親族会議でもそれがよかろうということになって選ばれたのが、山宣最後の文句であった。そしてその文句入リの墓石は、宇治署とすったもんだの結果、結局セメントをつめて字を埋めたらというので手打ちとなって建てられたのは、漸く十月の末。問題はかくして一時解決した。だが宇治署にとって頭痛の種なのは、山宣を慕う墓参リの人である。墓参リの人はなかなか絶えない。しかもその誰かがセメントを剥がしてしまうのだ。
山宣がいかに慕われていたかがよくわかる。彼なら格差社会と呼ばれる今日の日本を評して何と言うだろうか。富の再分配の仕組みは戦前に比べると格段に整備されているが、一億総中流とは言えない時代になっているような感じがする。