火事ほど恐ろしいものはない。日本史上最悪の火事が明暦の大火とするならば、明和の大火は次点に位置付けられるだろう。江戸市中の三分の一が灰燼に帰し、死者は1万4700余人を数えたという。明和9年2月29日のことであった。明和9年は「迷惑年」として、この年のうちに元号が改められた。世にいう目黒行人坂の火事である。
目黒区下目黒一丁目の松林山大圓寺に「大円寺石仏群」があり、都が有形文化財(歴史資料)に指定している。五百羅漢像で写真を拡大してみると様々なポーズをとっていることが分かる。
五百羅漢像の前に釈迦如来座像がある。優しげなお顔は、いつまでも見飽きることはない。頭部のやや大きいことが、幼児のような可愛さを演出しているようでもある。
この石仏群は次のような由来がある。大圓寺発行のリーフレットを読んでみよう。
江戸中期の明和九年(一七七二)の二月、大圓寺から出火、火は江戸城の一部も焼き、大江戸の街のおよそ三分の一を灰にする大火になってしまいました。江戸の三大大火と呼ばれています。
幸い仏像はすべて目黒川に運び入れられて無事でしたが、幕府はいろいろな理由で、火元である大圓寺の再建を嘉永元年(一八四八)まで、七十六年間もの長い間許可しませんでした。
その間、仏像の類いは隣の風上で類焼をまぬがれた明王院(現・雅叙園)に仮安置され、大圓寺の焼け跡には、明和九年の大火で犠牲となった人々の霊を慰めるため、五百羅漢像が石彫で造られ、並べられました。
石仏群は大火災の犠牲者を慰霊するために造られたのだった。現代は防火に配慮した住宅建築が行われるようになり、街を焼き尽くすような大火はめったに発生しないが、それでも火災が方々で発生していることはニュースで、あるいは消防車のサイレンを耳にすることで知っている。
火災はすべて小さな火から始まる。火元となった場所に造られた石仏群は、私たちに防火、防災意識を覚醒させてくれる。
石仏群の中に「とろけ地蔵尊」がある。品川沖で漁師の網にかかって出現したのだという。悩みをとろけさせてくれる、ありがたい仏さまだ。この地は、記憶には忘れたほうがよいことと忘れてはならぬことがあることを教えてくれるパワースポットであった。
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