橋はフラットなものと当たり前に思っているから、眼鏡橋とか太鼓橋などのアーチ形の構造美には目を奪われてしまう。今日は東京目黒に大正年間まで美しい石造アーチ橋があったというお話である。少し前まで橋のたもとに「太鼓鰻」という老舗の鰻屋があったが、今はなくなってしまったようだ。
目黒区下目黒一丁目と二丁目の境の目黒川に「太鼓橋」が架かっている。橋の向こうに撮影当時には繁盛していた「太鼓鰻」の看板が見える。
今は橋にその名を留めるのみの太鼓橋だが、かつての雄姿は歌川広重の『名所江戸百景』のうち「目黒太鼓橋夕日の岡」に描かれている。この橋の解説を目黒区公式ホームページのトップページ≫くらしのガイド≫学校・教育・生涯学習≫文化財≫文化財に関する啓発、文化財めぐりのコース紹介≫文化財めぐり(目黒駅周辺コース)にお願いしよう。
太鼓橋(たいこばし)は、行人坂から目黒不動へ向かう道筋の目黒川にかかる橋です。
明和(めいわ)6年(1769年)に完成し、長さ8間(けん)3尺(約15.3メートル)、幅2間(けん)(約3.6メートル)、太鼓の胴のような形をした石橋でした。
広重の『名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)』の中にも描かれた橋でしたが、大正9年9月1日の豪雨で崩落しました。
翌年、木橋が架けられ、昭和7年に東京市編入記念事業として鉄橋に架け替えられ、平成3年の目黒川改修工事に伴い現在の橋になりなした。太鼓形ではありませんが、橋名は昔のまま受け継がれています。
太鼓橋から目黒駅方向へ進むと急坂があり「行人坂」という。坂の中途にある大圓寺に修験道の行者が多く出入りしたことに由来するという。
この坂に「目黒川架橋供養勢至菩薩石像」がある。区指定文化財である。
このような石像が残されているのは、架橋が人々の悲願であったことを示している。何気ない橋であれ、あるとないとでは大きな違いがある。目黒区教育委員会設置の説明板を読んでみよう。
下から台座(97cm)、蓮座(20cm)、頂上に宝瓶(ほうびょう)のついた宝冠をかぶり、両手合掌、半跏趺坐(はんかふざ)の勢至菩薩像(52cm)の3段になっています。台座の前面と両側面に、江戸中期における目黒川架橋のことを語る銘文が刻まれています。
銘文によると、宝永元年(1704)に西運という僧が目黒不動と浅草観音に毎日参詣し、往復の途中江戸市民の報謝をうけ、両岸に石壁を築いて、雁歯橋を架けたことがわかります。目黒川架橋の史実を物語る貴重な資料です。 平成3年3月
雁歯橋は太鼓橋のことと理解されている。大圓寺には「目黒川の太鼓橋に使用された石材」がベンチとしてリユースされている。
その解説は興味深い話を紹介している。
八百屋お七の恋人吉三はその後名を西運と改めお七の菩提を弔うため江戸市民から寄進された浄財を基に行人坂の石畳、太鼓橋を石の橋にした。
目黒川に架かる普通の橋の由来をたどると、あの悲恋物語に行き着いた。「恋草からげし八百屋物語」(井原西鶴『好色五人女』)で世に知られた八百屋お七である。そういえば坂の手前の目黒雅叙園にこのような井戸があった。
お七と吉三の物語は目黒雅叙園が設置した説明板が簡潔で分かりやすい。
八百やの娘お七は、恋こがれた寺小姓吉三あいたさに自宅に放火し、鈴ケ森で火刑にされた。
吉三はお七の火刑後僧侶となり名を西運と改め明王院に入り、目黒不動と浅草観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行をなし遂げた。
明王院という寺院は、現在の目黒雅叙園エントランス付近から庭園に架け明治13年頃まであった。
この明王院境内の井戸で西運が念仏行に出かける前にお七の菩提を念じながら、水垢離をとったことから「お七の井戸」と言い伝えられている。
目黒雅叙園は太鼓橋についても説明板を作成している。読んでみよう。
太鼓橋は約250年前、大喰上人が造り始め後に、江戸八丁掘の商人達が、資材を出し合って宝暦14年(1764)から6年の歳月を経て完成した。広重はこの太鼓橋を浮世絵に描いており、こうしたアチ形の石橋は江戸の中でも他に例がなく、目黒の欧風文化の第一号とさえいわれたが大正9年9月1日、豪雨により石橋は濁流にのまれ、昭和7年架設された。現在の橋は、目黒川流域の都市整備計画により、平成3年11月に完成した。
ここに来ていくつか分からないことが出てきた。太鼓橋ができたのは1704年か1769年か。雁歯橋を架けたのは西運だが、太鼓橋を造ったともいえるのか。西運は本当に吉三なのか。大喰上人とは何者か。西運のことか、木喰上人の誤りか。謎は多いのだが、分かりやすいのは八百屋お七物語の後日談としての太鼓橋架橋である。感動を求める思いが物語を成長させていくのだ。
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