17日(土)にテレビ朝日系列で「ドラマスペシャル濃姫」が放映された。織田信長を主人公とするテレビ、映画は数知れないが、その正室である濃姫をヒロインとしたものは、これまでにあったのだろうか。観月ありさの好演は、謎の多いこの女性のイメージ形成にずいぶんと役立ったように思う。濃姫あっての信長だったのかもしれない。
岐阜市不動町の西野不動尊の前に「お濃之墓(濃姫遺髪塚)」がある。
ドラマでは濃姫の晩年は描かれなかったが、父・斎藤道三のあの有名な肖像画を菩提寺に寄進して以後は、実のところ文献史料からは消息が途絶えてしまうのだそうだ。その意味ではこの塚は濃姫のその後を伝える貴重な史跡である。現地の説明板を読んでみよう。
この墓は天正十年六月一日京都本能寺の変の折、夫君織田信長公と共に討死にされたお濃之方の墓で、討死された時、家臣(氏名不詳)の一人がお濃の方の遺髪を持ってこの地迠逃れ来て埋葬したものと伝えられて居ります。
昭和二十年七月B29の空襲により岐阜市の大半が灰燼となり墓石も焼失しました処、三十年を経た昭和五十年にお濃の墓の碑文がみつかり、氏子有志皆様の御協力を得て再建いたしましたお墓であります。
昭和五十一年八月吉日
西野不動尊堂守記
なるほど信長と運命を共にした女性であったか。観月お濃ならありそうな話だ。しかし、岐阜観光コンベンション協会のウェブサイト『織田信長と岐阜』13「信長の正室・濃姫」には、次のような記事がある。
濃姫の最後は諸説あり、一説では1582年(天正10年)本能寺の変で信長と共に自害したとされます。岐阜市内には「濃姫遺髪塚」と称するものも残っています。しかし、「信長公記」では「女はくるしからず、急ぎ罷り出でよ」と言い、女たちを退出させたあと信長は一人で自害しています。
1992年(平成4年)、京都の大徳寺(だいとくじ)総見院(そうけんいん)(織田家墓所)で濃姫の墓と見られる五輪塔(ごりんとう)が発見されました。没年は1612年(慶長17年)で、信長の死後、30年間も生き延びていますが、その間の詳細については、何の手掛かりもなく不明です。
観月お濃なら長命であったかもしれない。分からないところに魅力はあるが、さっぱり分からないとドラマにならない。試みに「濃姫」で検索すると、日本泉酒造(岐阜市)の銘柄「濃姫」や岐阜産イチゴの品種「濃姫」が見つかった。特に、いちご「濃姫」は岐阜県農業技術センターによると岐阜県内において65%のシェア(H20年)を誇る主力品種なのだそうだ。父や夫に次いで、濃姫の国盗り物語である。
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